思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

日本人論と歴史観

加藤周一の「日本文学史序説」では、土着世界観と外来思想の絡み合ってきた歴史が著された。それは、より【知識論的】な解釈を基礎に置こうとする試みではあったが、同時に心理学や社会学よりは【歴史学】を重要視した解釈図式に則ったものでもある。

そこで、その歴史学的思考と日本人論の関係を理解するために、他の比較的に普及した現在までの日本人論、「タテ社会」や「集団主義」などと比較しようと思うが、その普及している主なる理論は、加藤周一の知識論的な方法にたいして、それは【性格論的】な解釈の方に基礎を置いている。[ヨコ社会・タテ社会]、[個人主義・集団主義]といったように、おおよそ日本人が理想とする前者の欧米型と後者の現状日本型と見る二項対比の図式にある。

(他方、最近では「集団主義」の日本人論にたいする疑問も普及し始めているが、実際には私自身はまだそれらの本をとって読んでいないし、また"集団主義"の意味の取り方についても幾通りかの種類があるように思え、よく整理できていない。ひとまずは日本人論が「集団主義」という性格論的な解釈でなされてきた事柄のみに、ここでは留めておきたい。)

そこでまずは性格論的な日本人論が、日本の歴史についてどんな図式で解釈する傾向にあるだろうかを考察してみよう。

単純に考えれば、それは世界史的見地を参考にした"封建的拘束による集団主義から、近代的自由による個人主義への時代的変化"を前提としていると思う。つまり自由が成熟した欧米の個人主義を理想としながら、立ち遅れている母国日本の集団主義と考え、その考えを通しながら日本の歴史を解釈する傾向にあると思われる。つまり、日本史に見られる順次改革を施してきた人々の中の幾人かには個人主義的人物を見るが、あくまでも大多数の日本人については集団主義とみなしながら、日本の歴史を解釈しようとしているに違いないのだ。

今年になってNHKで放映されている「坂本龍馬」についても同様である気がしてならない。まるで我々大多数が集団主義であるのにたいして、坂本龍馬には我々と異なる手本的な個人主義の側面を感じようとしているようかのように思えてしまう。ある面、それは集団主義という日本人論を強固に信じたいがために見ているようなものである。(現状を集団主義と思うことにより、個人主義という目標が現れてくれるからである)現在の自らの集団主義的傾向にたいして、閉塞感漂う現日本を打開するために必要な個人主義的技とは、一体どんなものなのかを確認したいがために、坂本龍馬にその理想像を求めようとしているのだ。制作者側も、その視聴者の需要要求を考慮して脚色されるため、その脚色された坂本龍馬に[個人主義・集団主義]の日本人論が入り込んでいるように、私には思えてならないが、それは言い過ぎであろうか?坂本龍馬を評価されたのは死後のこと。死人に口なしと言うことで、我々の奉り方には、龍馬も口出し出来ぬと熱中する。西欧当人から口出しされない個人主義を理想像とした日本人と、龍馬当人からは口出しされない龍馬という理想像とした日本人が、ダブって見えるのは、気のせいだろうか……。

よくよく考えれば、現在、日本人論が普及していること自体が日本人の特質とさえ、まだまだ少数派とは言え、感じられてきてもいるのだが、たとえ他国においても自国論なるものが普及していたにせよ、その内容には違いがあるだろうから、日本において普及している日本人論の中に、日本的特質なるものを考察する価値はあるだろう。

我々が理論を消費すること、つまり市場で様々な供給されている理論の中で、ある理論が多くの人々の需要と重なり売れ行きを伸ばす日本人論が現れてくる訳で、その売れ行きを伸ばした日本人論には、日本人の抱いている需要意識が潜んでいると言える。その需要意識とは、現状日本に感じる"不満や問題点の指摘"、あるいはこれからの行動指針にしたいと願う"理想像、目標ヴィジョンの設定"にある。自らの行動指針となるような、問題設定と目標設定を行う日本人論は性格論的説明によって記されることとなるが、その問題解決の様式自体に日本人的特質を見るようになるならば、そこに潜む日本人的な思考形態なり知識形態を考察する知識論的な日本人論が必要とされることとなる。

いずれにせよ、性格論的な日本人論とは、現状日本に理想像を重ねて自信を獲得させるものも、現状日本を立ち遅れたものとして解釈するものも、どちらにせよ、"これからの目標とする理想像を持ちたい"という大多数の日本人の需要によって供給されてきた理論である。歴史上の大多数の集団主義の中で、極少数の打開を目指した人物の成功と失敗に秘訣や教訓を求たり、あるいは自らの集団主義的志向の打開を目標とする意味で、意気込みや信念、心意気を参考にしたいがために歴史学を扱う傾向となる。つまり性格論的日本人論とは、【その自らが抱いている日本人論を通して歴史学を扱う】傾向となる。

しかし知識論的な日本人論の場合には、逆に【歴史学を通して日本人論が構築されていく】側面を持つ。新しい日本人論を構築しようと知識論的に追求していくならば、特に現代は物の考え方の時代変化が激しいためか、現在の人々の知識状況に至った過去を探らなければならなくなり、結果、その遡らざる負えなかった歴史学から、新たな日本人論考察のための資料が束ねられてゆくことにもなる。そしてその知識形態の中でも、比較的長年に渡って変化もせずに維持継続して来た事柄が抽出できれば、それを根拠として新しい日本人論が可能となりえるのだ。

知識論的な歴史学の方向を示し始めた加藤周一は、日本文化を雑種文化と提示していた。日本"人"論ではなく日本"文化"論となっている点で知識論的な見解を保てたとも言えよう。しかし私は雑種文化を日本文化の特質とするのではなく、雑種文化をすべての文化圏に共通して潜んでいる仕組みと考えたいと思っている。近代西欧文化も、外来の古代ギリシャ文化、古代ローマ文化、キリスト教文化などを自らの土着世界観を基礎として雑種化させたこととして考察しようとする試みであり、新しい日本人論から新しい世界史への領域を覗き見しようとする根拠動機が、ここに一端を見せているのである。

要するに雑種化に日本文化の特質があるのではなく、ある雑種化の様式として日本文化の特質を求め、西欧諸国をはじめとする他文化においても、土着世界観を基礎とした外来文化との雑種化と見る必要があるのだ。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/05/22(土) 06:09:13|
  2. 新しい日本人論
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ドイツ歴史学とフランス啓蒙主義 | ホーム | 加藤周一 土着世界観>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/87-0eee1bad
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。