思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ナンシー関とアラレちゃん眼鏡

さて、何故に、私がこれほどまでにナンシー関とアラレちゃん眼鏡の関連性にこだわるのかを、少し示しておきたい。

先日、柔ちゃんこと、谷亮子の選挙出馬を、彼女が15年前に予想していたとして、ちょっとした話題となった。 [リンク] そのナンシー関の谷亮子についての見解、【ツブシが利く肩書き】、それに【後ろめたさも無い】をキーワードに選んでおきたいが、それは単に谷亮子についての見解に留まらず、ナンシー自身が世の中を見て解釈する、他の様々な人間についての見解にも浸透しているものなのだ。

そのナンシー関が解釈基準にしていたであろう一つとして、キーワードの【肩書き】に象徴される、日本文化圏に通用する"大多数の理念"がある。彼女はその大多数の理念の働きに敏感なのである。自身が持つ観察視線にたいして、よくよく観察されることを嫌う人々の一般的感情、その他者の感情を考慮していただろうナンシー関の意識を浮き彫りにしたかったが故に、私はアラレちゃん眼鏡と関連づけたかったのである。

どうであろう。ナンシー関が谷亮子の選挙出場を予感したのは、谷亮子の個人的資質からのみ感じたのであろうか?私には、日本文化圏において、抗しがたい漠然とした大多数によって維持される何らかの理念の働きが、ナンシー関の考えに入っていたと思うのである。

ナンシー関は、谷亮子がバラエティ的世界観では「空気を読めないやつ」でしかないと記し、突然、選挙出馬を予想している。裏を返せば、バラエティ的世界観ではなく、政界的世界観からの出馬要請が起こることも、同時に読んでいたことを意味するのだ。またオリンピックという、ツブシが利く肩書きは、バラエティ的世界観では通用しないが、日本文化における大多数の一般社会では効果を発揮するものと見ていたと言える。

つまり彼女は【一般社会の大多数の理念】と【テレビにおけるバラエティの理念】の関わり合いを見ていたと思われるのだ。消しゴムに刻み込まれた個々人とは、その漠然とした大多数の理念にたいする様々の多様化された対応の形態であろう。

もう一つのキーワード、【ツブシを利かせている後ろめたさもない】(ちょっぴり太宰治の香りがする文句でもある)は、今日の状況にも大きな意味を持つであろう。この場合は、オリンピックによる肩書きをオリンピックの分野に留めず、他分野への転用の際に、もともとその分野に関わっていた人々にたいして負い目を感じないことを意味しよう。要するに、自身を応援してくれる人々の期待しか見えていないような状態である。

ナンシー関のアラレちゃん眼鏡は、まさに新たな世代内のステータス眼鏡の効果計画を狙ったことにたいする嘲笑の圧力を意識した結果であった。後ろめたさとは若干異なるが、その嘲笑圧力の側の意識を全く感じていないことが、後ろめたさがないことを意味するのである。漠然とした大多数に支えられている理念のみへの信頼を谷亮子に見て、他の様々な人々の意識を考慮しない様子を、ナンシー関はアラレちゃん眼鏡を通して見たのであろう。


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  1. 2010/05/14(金) 06:04:39|
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