思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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山口県 幸せます

「秘密のケンミンSHOW」という番組で山口県の方言、「幸せます」が取り上げられた。通常「~して頂ければ助かります」と言うところを、山口県では「~して頂ければ幸せます」と言うことらしい。はじめに「幸せます」と聞いた時は不思議な響きだと思いつつ、どんな気持ちで聞いたらいいのか戸惑ってしまった。隣の島根県では「~して頂ければ喜びます」と言うらしいから、その辺りにも共通性があるのかも知れない。

まず標準語の「助かります」の主語が何かと尋ねれば、それは話し手もしくは話し手の属する団体である我々である。しかし山口県の「~して頂ければ幸せます」をはじめ聞いた時に、一体主語が何なのかよくわからなかった。聞き手が~すれば、"誰"が幸せになるのか、よくわからないのだ。多分、話し手が主語なのだと思うのだが、幸せの動詞らしきものを話し手自身が使うのには標準語では違和感が生じる。標準語では「~して頂ければ幸いです」と動詞を用いない。標準語では動詞が避けられている訳だが、「幸せます」の動詞となっていることについて、全く私には細かいニュアンスがわからない。山口県民にとって、喜びとか幸せが生じたことを相手に見せることが大切であるがために、動詞が好まれているのであろうか。標準語では相手に直接喜びを見せることは気恥ずかしく、また策略的に喜ぶような失礼の意識さえ働くために動詞を避けている感じがする。是非、山口県民のみなさんに聞いてみたいところである。

一方、山口県民の人々からすると、「~して頂ければ助かります」という表現には、何やら上から目線で言われているように感じるらしいが、その点も少々難解で理解に苦しむ。山口県民にとっては、話し手自身が助けられる身分であることを当然と思いつつ、それを聞き手に要求しているように感じるのであろうか。山口県では、そもそも人が幸せになることに貢献することに価値を置いており、その人を幸せにする方法を知りたがっている。そのため幸せにする方法を示す意味で「~して頂ければ幸せます」が用いられると考えてよいのだろうか。さらに「助かります」と言われると、自らが人々の幸せに貢献したい願望は置き去りにされていると感じ、話し手の落ち着いた自らの助けの要求に居座った上から目線を感じると思われるのだろうか。

もしこの推測が正当であるならば、貢献の理念の相違が言葉の相違に現れていることになろう。標準語の「助かります」の場合は、聞き手が【人の助けになること】に貢献の価値を置いていると見なしているために「助かります」と言うのであり、山口県の「幸せます」の場合は、聞き手が【人が幸せになること】にたいする貢献に価値を置いているために「幸せます」と言うことになる。

また隣の島根県の「喜びます」の主語についても、山口県と同様に随分と気になってくる。もし話し手が主語ならば、自分自身が喜ぶ様子をまるで他人事のように、あるいは客観的描写のように聞こえる。標準語では、むしろ「~して頂ければ、嬉しいです」の方が適切と思われる。標準語の「喜びます」は、「子供も喜びます」とか「主人も喜びます」のように、せいぜい身内の近親者にたいして使われるのであり、話し手本人が主語になるのには違和感があるのだ。要するに山口県の「幸せます」、島根県の「喜びます」の動詞が用いられることが、標準語の「幸いです」、「嬉しいです」の動詞を避ける立場からすれば不思議なのである。

島根県と言えば、出雲大社。ひょっとすれば、もともとは神々に象徴されるような社会全般の喜びを意味していたのではなかろうか。現在の意味合いは話し手本人の喜びや幸せを意味しているのかも知れないが、隣の山口県の「幸せます」も島根県と同様の神々、もしくは社会全般の幸せを、もともとは意味していたのではなかろうかという思いが、何となく横切る。

確か今年の正月番組「たけしの教科書に載らない日本人の謎」では、風土記に関して、大和朝廷は出雲の国にたいして特別な扱いであったと示されていた気がしたが、この島根県と山口県の言葉の様子が、もしかしたら関係しているかも知れない予感がする。
と言うのは、標準語「助かります」が、話し手の"自らが助けて貰う"といった下から目線の意味にもかかわらず、山口県の聞き手からは、上から目線と感じることにある。大和朝廷以前からの古代の日本文化の理念が、島根県や山口県がそのまま保存されてきたのに比べて、他の日本の地域では、仏教など外来文化を導入した大和朝廷の中央集権的理念が主流になったという大まかな解釈図式が思い浮かぶのである。
中央集権化では、地方の「助けて貰う」と中央の「助けてやる」の主従関係みたいなものが主流理念になったため、「~して頂ければ助かります」と聞き手を中央に見立てた地方意識の言葉として好まれた。一方の山口県では、話し手と聞き手の対面的やりとりの理念はなく、古来の神々への貢献理念を通した「幸せます」、「仕合わせます」が好まれたとも考えられる。ただ単に話し手自身の喜びの様子をあらわす意味のみで現在に至ったのかどうか、大変気になるところだ。対面的な意味で用いられる標準語「助かります」は、山口県民にとって「もしおまえが~するならば、我々は助かるが、どうだ?」と協力の意志を試す上層権威者の言葉に聞こえるのであろうか。

言語学や社会学の立場から見れば、山口県と島根県の方言と標準語標準語との相違には、歴史的経緯を含めて思った以上の意味が含まれているように思われる。

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  1. 2010/05/07(金) 13:52:42|
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