思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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人見知り

「人見知り」とは、もともと子供の成長過程を意味していた。身近な親子関係のコミュニケーションのみで育ってきた中で、他人の存在に気づき、恥ずかしがったり身構えたりする態度に、子供の意識の成長を見た言葉であった。「他人を見て他人を知った」という【他人の発見】が「人見知り」であった。
しかし今の時代、大人の人間関係にたいして、「人見知り」という言葉が多用されるまでに至ったらしい。一体、それは何故だろう?一つに、社会人理想像に"会話上手"の"コミュニケーション上手"が広く浸透したからである。頑固親父、無口がちな職人気質、しとやか美人などが、日常的風景にあらわれなくなったことに関係し、とにかく人と上手に会話をすることが成長で、うまく会話ができないのを成長途上として幼少期の戸惑いと重ねられる傾向になった訳である。
「人見知り」とは、恐らく「まだ人を見て知り始めたばかり」という成長初期段階という意味で用いられているのであろう。裏を返せば、その後人生を経験してゆくに従い、「人を見る目を養い、人を知ってゆく」ことが人間一般の成長、あるいは社会人一般の成長とみなされているのである。
しかし子供について大人が解釈する場合の「人見知り」には、奇妙なことが生じているのである。子供の成長を喜んでいるその裏で、自らの大人意識を喜んでいるのだ。つまり日本語の「人見知り」とは、自らの"人を見る目"を誉めるために、他者の初期段階へ向けて名付けられる言葉であり、今日にも受け継がれているのである。そんな成長観が強固な中では、自らを「人見知り」の性格と自己紹介的にアプローチする手段も時には生じるが、それは自分を取り巻く強固に普及した成長観の力を配慮してなされた結果である。


【その手段を行えなえず、かつ強固な成長観の圧力にさらさわれた人々は、今日の日本社会で、どんな状況にいるか?】


このことだけを考えただけで、現在起きている様々な社会状況についてのしくみが解明されるだろう。(ねぇ~、心理学者さん、社会学者さん。お忙しいところ、恐縮しますけど、よ・ろ・し・く・お願いしますねぇ~)

「人見知り」の言葉に潜んでいる問題とは、そう名付けられる側の人々についての心理的問題ではなく、そう名付ける側の自称する"人を見る目"についての自画自賛にあるのである。昔は会話上手という尺度に限らず他の尺度で"人を見る目"についての評価も同等になされていたが、今日は会話上手が最上位に登りつめたのである。
旧来の「人見知り」の意味には、他者にたいする警戒心や監視意識の芽生えも含まれており、これから大人になる成長において、「何とか社会でやっていけるようになればよい」と望む程度であって、かなり許容範囲が広く幅があった訳である。しかし今日では、会話上手やコミュニケーション上手が成長理想像にのし上がり(実際は、会話上手優位を宣伝する会話上手の勢力が強いからである)、そのため「人見知り」後の子供の成長についての評価に幅がなくなった言える。

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  1. 2010/04/19(月) 22:33:43|
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