思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ライプニッツ モナド論

ライプニッツは、スピノザとと同じく大陸合理主義の哲学者に分類され、ほぼ同時代を生きた。スピノザの方が十四年ほど先に生まれ1677年に亡くなり、その後1686年に、ライプニッツは「形而上学叙説」を著した。ここでは中央公論社の世界の名著シリーズ、一冊で足りるよう、「形而上学叙説」を取り上げる。

さて「形而上学叙説」を目を通してみれば、1から8までの項の神に関する叙述に、スピノザの神とほぼ類似した見解が認められる。それは多分、スピノザの「エチカ」の影響なのだろう。しかし9項となると、「エチカ」ではほとんど不足している、"表現"や"表出"が記されている。それはやがてモナド論へとつながる事柄で、スピノザとの相違に関わる一つである。
ライプニッツは、同じ街でも見る人々の位置によって映る風景が異なる点から、街がそれぞれに異なる表出をしており、モナド的個人も街と同様に表出をしているものとして示唆している。街について人それぞれ異なった解釈するだけではなく、街自体が表出をしている点に触れられているのだ。スピノザの「エチカ」で触れられている[嘲り]を例にとってみよう。「エチカ」での嘲りとは、軽蔑や憎悪との関わりのみであり、嘲りの外部へ表出される影響については、ほとんど触れられない。実際、嘲りとは人々の抱いている知識状態に深く関係して生じる出来事であり、心理的な欲望や感情から直接的に生じることではない。
モナド論で言えば、どうなるのだろう。時に人々の表出を受けた個人がそれに軽蔑を感じ、自らは嘲りを表出する。またその自らの表出した嘲りに、人々は反応して何らかの表出をするのである。しかし「エチカ」では"自己保持"をについて触れたが、"表現"や"表出"には至らなかったため、嘲りが周辺他者から発せられる表出にたいする、ある知識状態にある自己保持の一つの反応と考えるところまで及んでいないのである。
最も、エチカとはそもそも倫理学という意味らしいから、現実理解の社会心理学に徹していない点は仕方がないのである。今日我々が「エチカ」を読む際には、ライプニッツの言う個々人の発する"表現"や""表出"の社会心理学が不足しているだろう点に注意するのがよいかも知れない。

そこで近代における"表出"に関係する主要な観点を挙げておけば、一つには1899年ヴェブレンの説いた"誇示的消費"がある。それは1970年代からのフランス構造主義と呼ばれるボードリヤールの活躍に受け継がれ、"記号の消費"という記号の誇示状況なるものが示唆され、"差異化"と共に主要概念とされるにいたった。
私の意見を述べれば"記号の消費"というより、それは世界観やスタイルなど様々な理念が絡んでいると言った意味での"知識の消費"であり、記号とはその一部、またはその媒介である。記号とは制作者側の理念が刻まれたもので、その理念が刻まれた記号が消費されるのだ。その消費により会話や着衣、所有状況の誇示などの形態により"知識の表出"がなされるのである。何度も当ブログで繰り返し書き続けている【知識社会学】の一端が、ここにもあるのがわかって頂けると思う。
"差異化"とは、消費社会へ向けた生産者側の計画意識に浸透しているが、その差異化の計画には成功と失敗がある。ただ何でも差異化を計画し供給すれば、こと足りる訳ではなく、需要がなくてはならない。ライプニッツのモナド論は、各モナドは自らを表出し、各モナドは周辺モナドの表出の影響を受けていることを示したように、各個々人がそれぞれの理念より[差異]を解釈し、何らかの表出をする。そしてその[差異]の解釈の表出の各々の力関係によって社会は変化するのである。[差異化]の計画とは、言わば様々な人々がいることを利用するもので、理念の差異化の闘争と、知識社会学は見る。あるいは[差異化]を計画する人々の様々な周辺知識を研究対象とするのが、知識社会学である。

近代の"表出"については、他にもう一つに、アドルノらの1950年の「権威主義的パーソナリティ」を挙げておきたいと思う。ただ注意しておきたいのは、権威主義的性格とは独裁者などの単なる権威者の性格のみではなく、権威に適合する人々の性格のようである。
しかしよくよく考えれば、権威主義とは効果主義である気がする。権威に逆らっても効果がないから適合するのである。権威を利用する側にしても、自らの方法が効果があるからそれを維持できているのである。その効果とは、一種の他者に放つ"表出"である。またそれに適合した権威主義的性格の側も、その自らなりの何らかの"表出"を放つのだ。
「権威」という言葉が指している事柄とは、もともと"効果のある表出"を特徴とすることであろうから(効果がなければ権威とは感じない)、当然「権威主義的パーソナリティ」には権威の"表出"についての考察が付きまとうであろう。
現実社会を見てみれば、人々が権威ある表出の影響を受けるた際に、無批判的に適合し、その権威の表出をする側に属そうと積極的に行う場合には、【譲らされた思考】の特徴を帯びるようになる。現行権威に流されないようにするのが【譲れぬ思考】で、現行権威の状況を観察するのが【譲らぬ思考】である。権威、すなわち効果ある表出とは、その代表的一部からなされる表現に支えられ維持されているのではない。様々のモナドの集まりにおける支持、不支持などの表出による一形態である。キリスト教の流布によって変貌したローマ帝国だが、それはキリスト教理念の普及による現行ローマ帝国の権威理念の無力化を意味しているし、逆に帝国理念の効果減退を見た人々のキリスト教理念への移行を意味する。
以上のとおり、権威とは理念表出の効果によって支えられ維持されているものである。そのため知識論的に解釈されるべき対象なのである。権威とは様々な知識を抱いている人々を利用する実践的に用いられる理念の表出効果であり、その権威が維持されていることを性格論的にではなく、知識論的に考察しうるのが知識社会学である。

スピノザの「エチカ」では、社会における個々人の相互作用についての存在論的図式は充分に示されていない。比べてライプニッツのモナド論では"表現"や"表出"の社会的な存在論的図式が示されたのである。知識社会学を進めるにあたって、社会学者自身の知識所持状況についての意識を"思惟の現実"(2部・定理1)や"自己保持"(3部・定理6と7)で確立すること、あるいは各個人内の心理状況を解釈する意味では、「エチカ」の力は大きい。しかし知識を抱くことで無意識ながらも周辺他者へ影響を及ぼし合う様々な自己表出の相互作用状況を解釈しようとする際には、ライプニッツのモナド論が欠かせないと言ったところである。

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  1. 2010/04/14(水) 16:28:03|
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