思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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フランク・ナイト『危険・不確実性および利潤』1921




現在のイギリスにおける二大政党と言えば保守党と労働党(増加傾向にある第三政党らの比率にも注意を要するが)であり、今回の選挙ではイスラム移民やEU離脱の是非などが争点になっているらしい。


ところでイギリスにおいて保守・自由の対立から保守・労働の二大対立へ移行したのはおおよそ第一次大戦の1920年代の頃と見なされますが、一方の1920年代のアメリカと言えば共和党政権下の自由主義経済の雰囲気の中で戦後復興が行われながら新たな大衆消費化へとつながったようです。

そこで1920年代のアメリカにおいて注目しておきたい一つとして、フランク・ナイト(1885-1972)『危険・不確実性および利潤』1921 を挙げておきましょう。大戦後のイギリスではすでに牽引資本主義にたいして急進的な反対運動が起こらぬよう二大政党的な議論を進展させて来た中で、ピグーの『厚生経済学』1920 やケインズの『自由放任の終焉』1926 のような社会主義的な経済学が現れたりしましたが、一方のアメリカの場合は何やら牽引資本主義における必要経費の説明がなされたと言った感じがします。

そもそも産業革命の発祥地イギリスでは早くも1810年代にラッダイト運動が生じ、人民憲章(1837)を掲げたチャーティスト運動などの影響もあってか、第一次選挙改正(1832)以前は3%だった有権者比率も第三次選挙改正(1884)の頃になりますと19%にまで引き上げられたようです。また1920年代までは保守・自由の対立にあったイギリスの状況を含めて考慮しておきますと、互い(右派・左派の双方)に牽引資本主義による外交上のイギリス優位を認め合った上で、内政における階級問題の改革議論が進められて行ったと考えられそうです。

おそらくアメリカにしてもイギリスと同様に牽引資本主義による外交上の自国優位を右派・左派ともに共有しながら、それぞれイギリスではフェビアン協会(1884)、アメリカではAFL(アメリカ労働総同盟 1886)が現れたと考えられ、たとえばドイツの社会主義者鎮圧法(1878)のような議論の領域を狭めてしまう政策決定(もちろんビスマルクの均衡独裁では社会保障的な政策も進められはしましたが)と比較しておけるでしょう。

やがてドイツではビスマルクが退任(1890)しますと社会主義者鎮圧法も廃止されたようですが、今度はベルンシュタインの修正派(1895)と元々の教条派という新たな対立が生じることにもなりました。

なるほどビスマルク退任間近に起きたルール地方のストライキ(1889.5)にたいする対応としましては、従来の治安維持を思うビスマルクと新たな経営者批判に基づく労働者保護を行ったウィルヘルム二世とで意見が分かれていたようでしたので、ビスマルクの均衡独裁の時代から党派対立の問題を帝国主義的進出(3B政策)によって解消させようとすることになった転換点だったと見なせましょう。

ではフランスの状況はどうだったかと言いますと、まずサンディカリズムへつながって行くこととなったCGT(労働総同盟 1895)が挙げられ、パリコミューン(1871)の失敗(あるいは第一インターナショナルの終焉)などの反省から新たな方針によって再結束されたのでしょうか、急進的な直接行動を認める勢力として現れました。それはドイツにおける修正派にたいする教条派の態度と比べても過激なものだったと想像でき、強いてはイタリアのソレルの『暴力論』1908 やムッソリーニのファシズムへ影響を及ぼしたものと考えられています。


ここで若干の流れを整理しておきますと、国際労働者協会なる第一インターナショナルはイギリスのロンドンで結成(1864)され、パリコミューンの失敗を機に衰退しましたが、当のイギリスではフェビアン協会(1884)のような漸進的改革へ移行して行きました。そしてフランスのパリで第二インターナショナルが結成(1889)されます(ドイツ社会民主党が中心)と、イギリスのフェビアン協会を追う恰好となったベルンシュタインにたいして元々の教条派たちが修正主義(1895)と呼ぶ段階(ドイツ社会民主党の分裂)に入りました。

そうしてドイツでは穏健フェビアンの影響を受けた修正主義が新たに参入したのにたいして、同時期のフランスではサンディカリズムにつながるCGT(1895)が現れ、その後に政党としての急進社会党(1901)や第二インターナショナル参加のフランス社会党(1905)が現れました。そして第一次大戦が始まると第二インターナショナルも解消されて行き、ロシアの共産革命(1917)と大戦終結に至りました。


さて第一次大戦後の敗戦ドイツの状況についてです。革命によって共和政となったドイツは社会民主党右派が政権を握り、一方の社会民主党左派(教条派)が関わっていたと思われるスパルタクスの蜂起(1919)が起きて鎮圧されました。翌1920年には右派軍部によるカップ一揆や左派共産党の暴動などが起き、二大政党制とはほど遠い不透明な対立軸の分散化と言った感じで左右双方に挟まれた中道政権となりました。他方のフランスは対ドイツ対応に厳しいクレマンソーやポアンカレらによってルール占領(1923)となり、左派連合政権ブリアンによって一件落着(1925)となりました。

やがてドイツがイタリアの右派ファシズムの影響を受けたのにたいして、フランスでは第三インターナショナルの左派人民戦線の影響を受ける形となりました。


何はともあれ、左派の資質はどれくらいフランク・ナイト『危険・不確実性および利潤』が考慮されているかの度合で測られる。マルクス主義の用語「搾取」は当時の左派結集のための標語として仕方がないとしても、やはり急進左派への理論的な武器提供となり、たとえ彼らが権限を獲得したとしても(一定の牽引発展体制に達した国家の場合)牽引資本主義体制の衰退を招くこととなって、結局は右派への期待となるであろう。

総じてアングロ・サクソン系(英米)が早期に議会制の中の穏健左派を位置づけ始めたのも、対外意識に基づいた牽引資本主義の理念共有の結果だったと考えられ、一方の大陸内で比較的資本主義が先行していたフランスやドイツの場合は一時期的に均衡独裁(両ボナパルティズムとビスマルク)に頼った後、刻々と世界情勢が変化して行く中で右派に対抗する左派内の急進派と穏健派の対立が長く尾を引いたのである。



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  1. 2015/05/14(木) 00:00:00|
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