思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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スピノザ 「エティカ」

アインシュタインとスピノザの関わりについて興味を持つ人々は、少なからずいる。私も、その内の一人に含まれていそうだ。スピノザと言えば"汎神論"と"心身平行論"が有名で、彼の「エチカ」を中心に見てみようと思う。

ざっと目を通せば自ずとわかるとおり、「エチカ」は定理と証明の形で演繹的思考で書かれている。しかし私は、その方法が決して真理を示す"証明"とは認めず、ただ自らの考え方を示す形として捉えるのならば、賢明なる方法だったとして評価する。現代の我々が「エチカ」を読む際には、その"方法"に真理性を求めるためではなく、スピノザの自らの世界観を示すための道具だったと見なした方がよいと思う。現代の大半の様々な論述を見れば、自らの抱いている世界観を自覚しようとはせず、自らが生活してゆくために周辺他者との世界観と協和していれば、さほど問題なしとして、自らの理論内容の普及に徹するに留まっている。「エチカ」とは、演繹的方法による真理獲得の最善策としてではなく、自覚されないままにある日常的世界観にたいして、自らの世界観を自覚するための最高峰と評価するべきである。

内容を見ていくと、どうだろう。一つには「自由意志」への疑問と否定である(2部・定理48、2部・定理35・注解、3部・定理2・注解)。そこでは確かに"自由意志論"に反対し、"意志決定論"が記されている訳だが、しかしその理念対立にはただ意志の自由か決定かの問題のみに限らず、他の周辺理念が関わっていることが大事である。"意志決定論"の妥当性を示そうと定理を立てていたスピノザだが、問題は自由意志論者がなおざりにしている歴史観なのである。[今、ここ]の意志の自由と必然は議論の問題から外し、起きたことの過去については意志決定論によって解釈するのが妥当と、私はみなす。
仮に自由意志が真実と前提しよう。では今までになされた自由意志は、一体何だったのか?AをなすこともできたしBをなすこともできた過去の自由意志。しかしその自由意志がある事柄を選択したという事実は、どうなるのか?スピノザは歴史観に基づき、自由意志論者の主張に疑問を抱いたゆえに生じた意志決定論であろう。
要するにスピノザは過去の【起きたこと】にはすべて理由があることを前提としているのであり、この前提から広域な領域に適用させていたと言える。汎神論とは、「すべて起きたことには理由があり、神が知らない訳はない」、「存在するものはすべて神のうちにあり、いかなるものも神なしには存在しない」(1部・定理15)という根拠に支えられており、意志決定論と深く結びついている。神の知的愛とは、「すべて起きたことの理由を知る神が、その理由を知らせようとしているのであり、その理由を人間が知ろうとはしない限りは、決して災いが消えないようにこの世を創った」と前提したものと私は考えている。「理由を知ることは神の意図を知ることであり、その理由を知ることは愛」といった"知的愛"なのである。

現代日本の状況のために、神についての説明をしておいた方がよかろう。ご存知のとおり、「神」とは人間が作り出した観念である。しかし【起きたこと】には理由があるということにすれば、ある程度の人々も信じることができるだろう。そこで【起きたこと】に理由があると前提するならば、それを見て理論付ける人間についても同様に、理由があると信じなければならない。理由を探って創造するのが人間の役割ではなく、理由を探って創造している人間自体も、あらゆる理由の中の一つに含まれているのである。ではそのあらゆることには理由があるということについて、人間は歴史上どのように考えて来て、現在どのように考えているのであろうか?人間が築いてきた理論は所詮、曖昧で不完全であることを感じてはいる。いずれ遠い未来、もっと詳しく知る人も登場するだろうとも想像でいる。過去コペルニクスやアインシュタインなど従来の知識を変革したように。
そこで問題は新たに変革された知識の内容は、それが発見されるずっと以前から続いていたということ、つまり発見された時に地球が太陽のまわりを回り始めた訳ではないと言うことである。また発見は人間の創造ではなく、発見には理由があるということ、つまり人間が地動説を発見するしくみを創った訳ではなく、発見できるしくみは昔から用意されていたであろうということである。要するに"太陽のまわりを回る地球"と"地動説を理解しうる人間の理性"の両方を、初めから知り、それを見ていた者がいると信じるかどうかが、スピノザの神を理解しうる要なのである。アインシュタインがスピノザの「神」を支持したことも、この辺りの事情にあるのだろう。それは"知的愛"と"永遠の相のもと"が微妙に重なる領域である。
当時のスピノザが、無神論者と呼ばれてた事情を考えれば、もはや「神は人間の作り出した観念に過ぎない」という議論には加わりたくない。彼らは懐疑論を徹底し自らの認識を確認するか、従来どおり近所の博学者として重宝される場面を探しているのがよかろう。私としては、むしろ「神の観念を抱いて人々が、歴史上どう変化してきたのか」、あるいは「現在の人々がどんな観念を抱いて、どんな生活ぶりをしているのか」という知識歴史学なり知識社会学を進めたいと思う。

以上の論述から、スピノザが問題とした自由意志論と意志決定論の対立とは、一見【起きること】についての議論なのだが、実際は【起きたこと】に関する理念の対立を潜んでいたであろう状況を示すことができたと思う。若干違った観点ではあるが、自由意志論の不備としては、感情の強弱による選択状況(4部・定理7)をスピノザは示している。
「エチカ]はむしろ歴史上のスピノザという一人物が、当時の他の周辺他者の思考状況を眺めて、より有効な思考を求め、その新たな思考方法を説明したと読まれたい。それは当時の意志自由論的思考や禁欲主義的思考、性悪説的思考による現実の【起きたこと】についての理解にあたっての不備にを察して、意志決定論的思考や快楽主義的思考、性善説的思考により【起きたこと】についての賢明なる思考図式を紹介した著書である。アインシュタインが現存のマックスウェルの電磁力学やローレンツ短縮に潜む思考の不備を察して特殊相対性理論を築いた方法と似た著書として捉えた方がよいであろう。

スピノザの"性善説"や"自己保持"の記述を見れば、それが性悪説的思考や禁欲主義的思考にたいする疑問と否定であったことはわかるだろう。「もともと完全性(善)が備わっているならば、なぜ今がこんなに不完全(悪)なのか」の問いに、「我々の感覚ではなくその本性から評価しなければならない」(1部最終の付録)と答えている。スピノザは【起きたこと】についての人間側の感覚を通した写実的な心理学や社会学的解釈にたいして、"【起きたこと】のすべては、神があらかじめはじめに用意した材料で出来ている"ことを性善説の立場より主張しているのである。また自己保持の心理学は、自己犠牲の他愛主義に見られる現実理解の不備を示したものである(4部・定理25)。

さて「エチカ」を見る限り、そこには知識社会学とのつながりが無縁に感じる。しかしそこには知識論的解釈がなされており、知識社会学を進めるにあたっての理論建設者に必要な意識形態が示されているのだ。"観念の観念"が中心課題となる。
"観念の観念"(2部・定理21・注解)とは、自らが観念を抱いていることについての観念である。(スピノザは[観念を抱いている]状態を[精神]とおおよそ考えている)その抱いていることについての観念が生じた時には、その[観念を抱いていること]についての観念を抱いているという現実も生じていることを意味する。デカルトは「我思うゆえに我あり」とした。しかしデカルトは「我思うゆえに我あり」という観念を抱いている現実を意識しなかった。「我あり」という観念を第一原理にしてしまったのであり、スピノザは「我あり」の観念を抱いていることさえも意識するように求めている。[神の内にある観念]とは、自らが観念を抱いていることが現実ならば、当然、神はその状況を知っていることを意味する。(2部・定理1)
"永遠の相のもと"と"知的愛"とは、現在の知識所持や観念所持の状況を現在の状況として見ること、かつそのように人間が気づく前から、すでに神はそのように見ていたことを示すために用意された概念なのである。ヘーゲルはこうしたスピノザの思想の影響を受けて、弁証法的精神の歴史的展開を見た。しかしヘーゲルはその歴史観を抱いていた自らの知識所持の現実を、充分に"永遠の相のもと"の一時点として意識し切れていなかったため、知識歴史学への内容吟味の方へ進めなかった。発展状況の弁証法という様相を示すだけで、その発展様相に他者の思考パターンを洞察しながら生じる新たな思考パターンの展開を見なかった。

「エチカ」では、【起きたこと】なついての新たな思考図式を示そうとしているが、同時に、人間の知識や思考などの状態が含まれ、知識の抱き方で人間の行動が変わることも前提にしている。"自己保持"は他者を無視した利己主義ではない。知識の充実なは他者についての知識も含まれ、他者を考慮する自己を保持することに求められているのであり(4部・定理24、同部・定理36)、一方、他者を無視した利己主義とは、知識が不足した自己保持と見なされる訳である。ただし私はスピノザの言った"徳"の部分を、"徹底した現実理解"と置き換えたいと思う。

最後に「エチカ」の特質をまとめておこう。それは【起きたこと】にはすべて理由があるといった"汎神論"により、知識所持の現実をもそこに位置づけ、"永遠の相のもと"における歴史的知識の変化過程として現在の知識状況を見ることを著している。"知的愛"については、徹底した現実理解がなされれば、人は愛の行動へ向かうように神によって創られているだろうことを意味している。

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  1. 2010/04/11(日) 23:04:50|
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