思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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賞の授与

今日の世の中、あたりを見渡すと「~賞」とかいうものが、訳が分からないほどに色々ある。私なんかの場合は、恥ずかしがり屋でちょっぴりシャイなので、もし受賞なんかに選ばれにもしたら、みんなの前でどうしたらいいもんかと、時々心配してしまう。ある日、そんな気持ちを知り合いの前で口にしたら、「……、選ばれてから悩んでも遅くないんじゃないのかな?」と、見識の深いアドバイスをしてくれた。
さて、そんな授与式の際に「こんな素晴らしい賞を受賞できて光栄です」とかいうような雰囲気の言葉を聞くと、私としては何か不思議な気持ちでいっぱいになる。自分を遠まわしに褒めているのか、それとも授与した方々を褒めておいて今後の自分の立場を盛り上げようとしているのか、いささかわからなくなるのだ。

振り返れば、日本の1972年は、わかないことをわからないことと認識していた時代であった。年末の日本レコード大賞の「あの鐘を鳴らすのはあなた」、「喝采」はその例である。
和田アキ子の客席や審査員さえ寄せ付けようとしないパワーは、二度と見ることのできないものだろう。作曲した森田公一も、何が起きているのか分からず、目を半ば点にして、和田アキ子の歌っている姿を見ている。彼はわからないものをわかないものとして恐れることなく、ただ記憶に留めておこうと見ていた。まさか自分の作った曲が、こんな姿で歌われることになるとは思いもしなかったのだろう。和田アキ子にしても受賞の喜びはあったのかも知れない。しかしそんな受賞のために歌ってきた訳ではないと、まるで自らに言い聞かせ確認でもするかのようである。あの時代、歌手の職業につく際、あらかじめ自らあれこれ理屈をつけたり解釈することがなかったのだ。恐らく彼女は「あの鐘を鳴らすのはあなた」の歌詞を理解していないし、そのことを自覚している。訳のわからない作詞家と作曲家によって作られた曲を、わざわざ自らが歌っていることの意味を掴みたいが、次々にただ伴奏が流れてきて、自らは歌わなくてはならないのである。
ちあきなおみにしても同様である。彼女の場合は歌詞を理解しているが、「暗い待合室 話す 人も ない私の 【耳に私の歌が通り過ぎて行く】」の【過ぎて】の部分で、人々が注目する前で歌う意味がわからなくなるのだ。彼女らの涙は受賞の喜びや、今までの苦労の想起ではない。今までの職業としての歌手生活で自らその役割を解釈してきたのだが、この舞台で訳がわからなくなるのである。彼女の場合は特にプライベート意識と職業的意識を区別する歌手である。よくものまねされた彼女の顔は自分の本心を隠すためだけではない。彼女には自身の意識状態と周辺の意識状況との格差が大きい。自身の意識状態を表現する気はないし、それを望んでいない。途中から流れる女性コーラスが聞こえてくると、周囲と距離を置く自分の位置を周りに気付かれないように保とうとするが、普段訓練していない状況のため隠しきれなかったようである。この時代は、自分の気持ちを歌いあげようと工夫しないし、人々に勇気や希望を与える目的もない。彼女らには歌うことについての解釈はない。ただ職業的歌手についての解釈が纏わりついてしまい、わからなくなるのである。
私はここに、わからないことをわからないことし、解釈していることを解釈していることとする【譲らぬ思考】の原型を見る。当時の彼女たちは、歌う位置と歌手という職業的位置を区別していた。その後は次第に職業的歌手が歌う位置に入ってきて、言わば職業的歌手に"譲らされた歌"となり、歌は職業的歌手の立場を守る傾向になった気がする。歌に感動した時に歌を解釈したり、歌に感動している人々を解釈して制作することになっていった結果であろう。時代は変わらなければならない。これからは"解釈していることを解釈していること"とし、解釈が不当に占領していた領域を再確認することにあろう。

また1983年の「フラッシュダンス」という映画を、みなさんはご存知だろうか?ダンス披露の際の背中から撮される審査員の列席が象徴的である。審査員の「私評価する人」、ダンサーの「私評価される人」に明確に分かれた社会状況を暗示しているかのようだ。
ある者は審査員の安楽椅子獲得の舞台設定と会話術を学び、ある者は人に認められるまでの情熱の独立自尊を信じた。しかしあのダンスには「審査員なら審査員の仕事があるのよ。あなたたちに私のダンスが見えるかい?」というメッセージがあるように思う。

これから授与式を見る際には、授与する側、される側の双方の笑顔が見ものになる。自らが抱くヒエラルヒー的社会観の人々への刷り込みを狙った"譲らされた思考"による演出か、それとも様々な人々を配慮した文化紹介の一形態とした"譲れぬ思考"によるものか。


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  1. 2010/04/08(木) 16:20:13|
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