思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ドイツ地域的分布の研究 ~七選挙侯(1356)~




さてクレッチュマーの『天才の心理学』1929 第五章で用いられていた北方人種とアルプス人種を参考にして、大まかなドイツの地域的分布を述べておきましたが、今度はカトリック教皇と神聖ローマ皇帝の関係にまつわるドイツの選挙侯から考えておきましょう。

まず神聖ローマ皇帝がドイツ地域に大きく関わり始めたのは、ザクセン朝のオットー一世が教皇ヨハネス12世から神聖ローマ皇帝の戴冠を授かった時(962)でしょう。それは有力諸侯の選挙によってドイツ国王が選出され、そのドイツ国王が教皇によって神聖ローマ皇帝の称号を得ると言った感じのようです。

そんな状況の中、インノケンティウス三世の干渉によってマインツ司教、ケルン司教、トリエル司教、ライン宮中伯の四名に定められました。それから1257年にはザクセン公とブランデンブルク辺境伯、1289年にはベーメン王が加わり、カール四世の金印勅書(1356)によっては七選挙侯の状態が明確に残されるようになりました。






三大司教(マインツ・ケルン・トリエル)の地域は現ドイツの中西部に集中し、プファルツにしても南西部と言った感じであり、教皇インノケンティウス三世と関係が深かった教皇派の地域と察せられます。ニコラス・クザーヌス(1401-1464)やケプラー(1571-1630)も中西部もしくは南西部の出身だったようです。

一方、中東部のザクセン、北東部の辺境ブランデンブルクは司教に選出権があったわけではありませんでしたから、カトリック体制と離れた地域だったかも知れません。また最初に神聖ローマ皇帝の称号を得たオットー大帝もザクセン朝(アングロ・サクソンのサクソンと関係あり)であったことから皇帝派に近かったろう地域と察せられそうです。


では中西部や南西部でクザーヌスやケプラーが輩出されたのにたいして中東部において現れ始めた独自性と言えば、ザクセンのルター(1483-1546)とバッハ(1685-1750)、あるいはイギリスへ渡ったヘンデル(1685-1759)があげられるでしょう。

音楽についてクレッチュマーが説明したことにはザクセン・チューリンゲン地方のバッハとヘンデル、オーストリアのハイドンとモーツァルトをあげてますが、それは前者の18世紀前半のバロック音楽と18世紀後半の古典派音楽で分かれています。

それから19世紀のロマン派音楽の時期にしましても、ザクセン・チューリンゲン地方のシューマンとワグナー、オーストリアのシューベルト、リスト、ブルックナーと音楽上の輩出地域が限らている点を示唆し、中西部のベートーベンや北部沿岸ハンブルクのブラームスを例外的飛び地としています。

なるほど、クレッチュマーがアルプス人種の混交した地域と説明する東側地域に集中した著名音楽家の分布調査からすれば、確かに中西部のベートーベンの場合は例外に相当してますが、さらに話を進めて、三大司教が置かれていた地域的雰囲気であったがゆえに生じえた新たな音楽の特質ではなかろうかと、ちょっと考え直してみる必要も残されていよう。

そうした地域的な例外はバッハやヘンデルの同時期の南西部パッヘルベル(1653-1706)にも適用できるでしょう。パッヘルベルのカノン進行とは、1970年代以降の日本ポピュラー音楽(『翼をください』に始まると思われる?)にも影響を与えているコード進行であり、1930年代に作られたロシア国歌にも応用されている点で、当時のドイツと何か共通する物事の見方が反映されている可能性が大いにあります。

(かつてパッヘルベルの地ニュルンベルクは皇帝と関わりがあった自由都市にあり、またバイエルンは三十年戦争終結時の1648年に新たに八番目の選挙侯として七大選挙侯に加わっています。)
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  1. 2014/06/06(金) 22:09:56|
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