思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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理解されない自己領域

我々は他者に理解されないだろうという自己の領域を、大なり小なり感じている。それは孤独に苛むものがあれば、ある程度の友達や夫婦、家族で共有されるもの、本などで感銘を受けたものと、色々な領域が混ざり合ってたものである。そんな他者に理解されないであろう自己領域にかかわる知識というものがあるが、それは単にその個人的思いの中に留まっているものではなく、無意識なものにせよ、社会的影響力を放しているものである。
孤独の雰囲気を放す容貌、隠遁生活の状況を人が噂したりすることは、孤独の社会的隔離ではなく、それは理解されない自己領域の発する社会的影響力である。(社会的影響がなければ、その容貌を見ることはないし噂をすることもない。容貌を見、噂をしていること自体が社会的影響の結果である)勿論、その孤独的自己領域が当人が意図するようには影響を与えないが、その当人の状態は、その状態であるがゆえの無意識ではあるが社会的影響を放している。またある程度の内輪で共有されている自己領域についても同じである。決してそれは内輪で共有して語られる中に限られた社会的影響に留まらず、あらゆる接触する他者にも何がしかの社会的影響を放している。

その理解されない自己領域については、およよそ二種類あるのは疑う余地はないだろう。その内にさまよう孤独感に思い悩む形態と、その秘境的自尊心が伴った自信によって振る舞う形態とがある。さらには幾人かの仲間と自己領域の知識が共有されている場合にも当てはまる。趣味や話題に話の合う集団、利害理念が一致する職業的な集団、あるいは恋人や夫婦など、自己領域の共有形態にも様々なものがあるが、そこには外部他者の状況に影響された模倣従属的な形態、外部他者への新たな暗示的放射を期待する自己表明的な形態などがあり、他者の反応や反響を見ては時の流れとともに変化してゆく。

理解されない自己領域における、思い悩む形態と秘境的自信の形態のちがいとは、およよそ自身の抱く現状効果の有効性の有無にある。思い悩みとは、自らが望む自己社会参入形態へむけた効果的知識の皆無により生じ、秘境的自信とは、自らの望む社会参入の効果的知識の充実感によるものであろう。その理解されない自己領域の内で自らがながめている効果の有無についての様々な知識、その知識によって実際の社会生活を解釈し、思い悩んだり自信を持ったりしているのである。その自己領域の秘境的知識とは、確かにその自己領域内のみにおいてながめられ、自己領域内のみにおいて現実解釈されているにすぎない。しかしある程度の知識領域においては、それがある程度の人々と共有されたりすることもあり、その共有されていることによって全く個人的なものとは異なった社会的効果や影響力を放射する。

奇妙なことは"理解されない自己領域"についての意識や知識を持って生活する人々の中で、その"理解されない自己領域"についての他者が抱いているだろう知識を互いに解釈し合っていることである。パロディものとは、この他者の自己領域の状況についての考察に、重要な視座を示してくれる。役者が演じる役柄とは、自らが自らの内で自己領域を解釈している状況を風刺したものである。その演じられる役柄とは、自らが自らの内で解釈している社会的効果に集中した人物なのである。舞台役者と観客は、その閉じこもった社会的効果の計画性を笑う。風刺された人物については、自らの放つ社会的効果の習慣づけられた計画に集中していて、その社会的影響にたいする無頓着性が示されることもある。パロディ舞台では効果を狙う白々性や無頓着性が笑える場面であるが、実際の日常社会では、そのような白々性や無頓着性を目の前にした場合には決して笑える状況ではない。逆に言えば、日常社会におけるその閉じこもった自己領域からの社会的効果の放射とは、周辺他者がその無頓着性を目の前に感じても、それに公然と対抗できない社会的状況であることを利用しているようなものである。また、その自らが発した無頓着性にたいする周辺他者の抱く牽制意識にたいしては、自己領域に集中してため全く気付かないでいる無頓着性の"うっかり志向"もあるし、その牽制意識を知りつつもあからさまに振る舞う白々性の"ちゃっかり志向"もあるのだ。社会状況とは人々のそれぞれの知識の持ち方によって繰り広げられて行くが、"人それぞれ異なった知識状態にあること"についての知識も社会状況に関係しているし、その知識自体、人それぞれ異なっているのでもある。
こうしてパロディの舞台を見る観客は、白々しく無頓着なる役柄の"自己領域の社会的効果の習慣的計画性"を笑っている。その役柄によって示された自己領域からの計画性についての知識は、笑いによって観客らは自然と共有化し、その共有化されたのを互いに確認することとなる。そして舞台で示されたある種の自己領域からの計画的効果は、舞台終了後、日常社会においても徐々に従来の牽制意識とは異なった形で見られて行くようになる。

人々が自己領域内で計画している"多数の共有知識に向けて効果がある事柄"とは、それは当然、ある特定他者から牽制されたり批評を受けたりする。そして牽制や批評を経験することで、その牽制や批評をも含めた上での大多数に向けた社会的効果の知識へと行き着き、定常安定的な維持となる。しかし、それはもともと"理解されない自己領域"の特質から生じた知識のため、大多数が共有する知識ではないし、そもそも大多数が共有していないがゆえに用いられる知識なのである。



以上のとおり、知識社会学とは徹底されて行けば、こうした知識さえも当然研究対象になる。一方の現代社会学や心理学を見れば、どれだけ性格論的で写実絵画的な現実を見ない用語で満たされているのか察しが付くだろう。現実社会を調べるよりも、大多数に「現実」を説明することの方が大事なのであるから、まあ、そうした用語にならざる負えないのは仕方がない。そんな社会学者や心理学者の説明ばかりが聞こえてくるので、一般人の私から見る知識社会学なんかは、せいぜい無知な人々を食い物にしている人間ウォッチングを趣味とすることぐらいしか、役に立たないだろう。


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  1. 2010/04/01(木) 22:38:00|
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