思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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プロメテウスと傍観者 ~楽しいタコ庭園~




古代ギリシャ神話のプロメテウスが近代になって注目され始めたのは、どうやら18世紀後半からのドイツからである。レッシング、ヤコービ、メンデルスゾーンらによる汎神論論争の発端にはゲーテの『プロメテウス』がかかわっていたと言われてますし、19世紀に入ってからはショーペンハウアーやニーチェもゲーテの『プロメテウス』を引用しています。そのプロメテウスにゆる波及観点としては、一つにドイツ語圏における実存主義に現れていたと言えましょう。



ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』1819 第54節

キルケゴール『死にいたる病』1849 第一編最終部

ニーチェ『悲劇の誕生』1872 第9節



実存主義とは簡単にまとめてしまいますと、【順応雲隠れ状況にたいする頑固な個人主義】である。権限ある教育者たちが『そもそも人間の本質とは ……』と講義している中、インテリとして順応して行く後継生徒たちの考え方にたいして、そうした権限に順応しようとしている現実存在 (実存) こそを自覚させる、そんな人間論を示した形なのである。

つまり実存主義がプロメテウスに触れたのも、言ってみれば伝統的な権限ゼウスにたいして逆らい、順応する側近インテリ者へ向けた当てつけだったのである。

たとえてみれば、原発推進派のインテリ集団が社会的必要性という名のゼウスを御神輿している状況の中、プロメテウスのように物言いを投げかけた原発慎重派は縛られてしまい、しかも人々の無関心の中で周囲からの援助救済さえ得られない状態を意味しているのだ。

なるほど一方で、未来の予期せぬ危険を理由に非難してくる伝統的安全のゼウスにたいして頑張ってきた原発開発者たちこそが、ある意味でプロメテウスの立場に重ねられるのかも知れない。しかし開発者たちは利権を得られる上に、こっそりと慎重専門家の排除で根回し協力をしていた点ではプロメテウスではない。むしろ原発開発者とは社会貢献というゼウスによって慎重派プロメテウスを追放し、エピメテウスという誘致自治体にたいして原発というパンドラの箱を与えた立場に近いのである。

全くプロメテウスは火を用いる人々に感謝されないばかりか、『もっと上手くやればいいのに』と助言を受ける立場にある。もっとわかりやすく言えば、川に溺れた子供を救済したにもかかわらず、その親からは『もっと上手くやれば怪我もなかったのにね?』と助言を受けるようなものなのだ。

ニーチェの影響にあると見なされているヒトラーのナチズムとは、『集客支持がなければ自業自得だね?』とゼウスの側近インテリに嘲笑されてきた反動なのである。つまりニーチェはドイツ人にアーリア民族のプロメテウスを見て、ヒトラーはプロメテウスが縛られている中で『感謝もせず上手く泳いでいるユダヤ人だ』と考え敵視した形であったのである。

実際問題、新たな社会改革を組織になしに行おうとした際にはプロメテウスのように縛られてしまっう可能性が大なのであり、結局は他の人々からは傍観されるだけになるので、誰かが動くことを期待して自らは無駄に動かないのが基本になるのだ。





特に尖閣ビデオ流出の結果が、わかりやすい例かもね。みんな、ちゃんと感謝してる?へへへ、ところが『これからどうするの?』的に笑っていたテレビ出演者ばかりだったから笑えるし、大多数も他人事だからね。全くそんな小出しの事情通たちが政治の問題を扱っているから、日本の政治も遅れたまんまなんだよ。しかしこれからも彼が政治の遅れを解説する役に抜擢され続ける日本なんだろうね。

いやはや公正化の残念を笑いながら、残念な国にいることを知らない構成員たち。他人の不幸は蜜の味で、自分の幸せは秘密の味だ。きっと肝心なことはしゃべらないおしゃべり職人なんだろう。自分の余裕を組織図を通しながら眺める、そんな笑い方に表れている。





さて話は戻るんだけど、ゲーテが最晩年の作『ファウスト・第二部』1832 でプロメテウスではなくオイフォーリオン (9696-9906行) にイカロスを重ねたのも、何やらプロメテウスの傍観される結果を知ったゆえに敢えて観察するリュンケウス (11289-11293行) の立場を強調したかのように見えてくるのである。

なるほど、かのドラッカーにしても自らの立ち位置をリュンケウスにたとえていたらしいし、また『傍観者の時代』1975 という著書のタイトルからして、おそらくプロメテウスの傍観される危険性を知っていたのであろう。

しかしドラッカーはプロメテウスについて触れなかった。彼は組織評論家であって、社会学者ではない。また自らを社会生態学者と称していたらしいから『プロメテウスが縛られたのは自然の掟だ』と布教してしまった形である。全くドラッカーは、自らの社会生態学という知識の普及によって知識社会自体を運命づけたことに気付かなかったのか、あるいは隠蔽しながら自分の君臨を引き延ばしたことになろう。

Yellow submarine

Octopus's Garden




(タコ庭園 そこどけそこどけ 八本足が通る)



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  1. 2012/07/19(木) 19:48:58|
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