思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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知識力

知識社会学を理解するのには、人々が抱いている実際の知識の状況を知らなければならない。そしてその社会的な知識力を調べていかなくてはならない。ただ単純に「知識力」と言ってしまった訳だが、しかし便宜上それを【知識の効果力】と【知識の影響力】に分けておきたいと思う。それの方が、より知識社会学を理解していく上で効果が望めそうな気がするからである。

さっそく自分自身を含めて、現実の人々の様々な効果を期待した知識の利用を想像してみよう。たとえば"本音と建前"の知識などは、いかに使われているだろうか?それは恐縮した形の建前の使用であれ、堂々とした形の建前であれ、各人の効果を期待した建前についての知識によってなされるものである。そしてその知識の周辺には、「ひんしゅくを買ってはいけない」という知識によって恐縮にいたったり、「ここは格好良く紳士的に決めたい場面だ」と堂々たる何かをアピールすることもある。実際、我々は自分自身の抱いている知識を総動員させて、何がしかの危険回避や自己進出などの社会的効果を期待しながら、行動している物なのである。
こうした比較的に意識的で行動のためになされる主観的な知識の力については、それを"知識の効果力"の側面をあらわした事柄に相当する。
一方、その各人が狙った効果のための実際の社会的結果に関する力が、"知識の影響力"の側面を示す、比較的に無意識的で客観的な知識の力と言える。人によってはそれほど必要がないと思える恐縮的な建前などの、実際の周辺他者が受け取る影響力のこと、あるいは実際に周辺他者が受け取る紳士的態度の影響力のことを意味する。
【効果】と【影響】。徹底的な知識社会学では、「効果」なるものは、人々が抱く主観的な知識内で期待するところの理念に限られることになり、実際の社会的な知識力については「影響」一色に染まってゆくことになる。反対に実際の社会的な知識力を考察するにあたって「効果」の意味を割り込ませようとすることは、デュルケームやマートンなどの機能主義的社会学が、自らが前提とした「効果」から外れた側を「アノミー、逸脱」と見なしたように、自らの知識論的自覚がないまま抱かれることとなる、一つの社会学という知識形態にすぎない。それは"社会的秩序維持のための知識効果"について宣伝する社会学であり、その彼ら自身が抱く社会学という知識の、実際の社会的影響力について考察しようとはしないものでもある。(初め内は、自らの機能主義的社会学自体が社会的効果を持つためにと、「社会的秩序のための知識の機能的効果」について宣伝し始めるのだが、その「社会的秩序のための知識効果」なる理念自体が無事に広く受け入れられることとなると、今度は"その知識自身の普及状況自体が社会的秩序に必要である"という意味合いの宣伝文句になってゆく訳である。そんな社会状況へ移行した際には、誰も彼もが効果主義の傾向となり、効果主義的理念が文壇を仕切り始めることになる)ただし、徹底した知識社会学においても、「効果」によって知識の社会的影響を考察しなければならない側面がある点にも注意しておきたいが、それは実際の周辺他者への浸透普及度や社会的状況への影響度を示すための意味に限るのであり、機能主義的な自らが設定する「社会的秩序」や「個々人の社会参入」に関する成果度ではない。あくまでも「影響」を基調とした上での「効果」である。以上の機能主義的社会学と知識社会学の関係については、グールドナーの「社会学の再生を求めて」1970(訳書 新曜社)が参考になる。

日本では1998年の「老人力」の反響を見てからというもの、「~力」の出版が盛んとなった。「力」の理念によって新たな意識が共有化されていった時代の変化をあらわす現象である。それらは個人主義的な自己実現論、社会的参入の目標理念に彩られたもので、社会学的な現実の社会的力を理解しようとするものではない。彼らはそのような個人主義的目標理念が広まっている社会的な知識状況を察して、自らの経済効果、進出効果のために出版を試みたものである。私個人としては、「出版力」とか「あやかり力」とかのタイトルで、もっと"現実に働いているところの社会的な知識の力"を理解してゆくための本に仕上げてもらえればうれしかったが、彼らは自らが見つめる出版効果や社会的知識状況の景色を独占知識財産と考えているのだろうか、全く公表しようとはせず、「おまえらなんかは社会状況を知らなくていいんだよ、修行、修行、修行でもしてろ」と内心では思っているかのごとく、「社会のせいにしていないで、自分を磨きましょう。これから求められるのは~力です」と激励しているかのように見える。世の中、社会状況を見ずに自己実現に徹するうっかり者と、とぼけた言論の自由を用いる時代的コメントに優れたちゃっかり者の二つに分けて見ている人々、そうしたちゃっかり者達は互いに牽制しながら、うっかり者を小突いては激励し、出番の確保維持をしている。そう、その出番を維持するには【知識社会学】は、うっかり者に知れ渡ってはならないのである。互いに牽制し合うちゃっかり者達も、この点では目と目で通じ合う仲、大多数がわからない知識領域を利用して、うっかり者の数が極度に減らないように協力して批判を凝らす。この特定人物の隠し持っている"うっかり者とちゃっかり者"の社会学的知識の現代日本における影響力を、知識社会学は知っている。ちゃっかり者がうっかり者を小突く場面、大多数のペンギンチックスタイルは、うっかり者より自分の方が世の中について知っていると微笑み、ちゃっかり者には反逆いたしませんと微笑む。うっかり上手、小突かれ上手の達人よ、ここに知識社会学を授ける。ペンギンチックスタイルの人々の中、おとぼけちゃっかり人の選民意識を茶化しなから、しがらみをかける技を磨け!

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  1. 2010/03/31(水) 04:45:49|
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