思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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トスカネリ 地球球体説 (1474) ~ニコラス・クザーヌスとアインシュタイン~



イタリアのトスカネリは、1474年に地球球体説を発表したと言う。するとそれを聞きつけたコロンブスさんは、スペインのイサベル女王の支援得て 「丸い地球の上にいるぞ」 と思ってか思わぬか、1492年にお出かけしたということだ。

さて問題は地球球体説が、必ずしもトスカネリ発ではなく、古代ギリシャから予感されていたということである。こちらの小規模な探偵事務所による地道な隠れた調べによると、様々な緯線上の地域における北極星の見かけ位置が異なっていることを手掛かりに、地球の大きさを計ろうとしたエラトステネスというお方がいたと言うことである。



どうやら西ローマ帝国の時代、キリスト教が普及しゲルマン人さんがやって来て、その後すっかり変わってしまった西ヨーロッパ地域であります。

しかし復興・再生の意味を有する 「ルネサンス」 で世界史を表現し始めたのは、後々のミシュレやブルクハルトの19世紀半ば頃からという点を忘れてはいけません。つまり19世紀以前の時代では、五世紀のキリスト教の普及とゲルマン人侵入によって古代ギリシャ・ローマ文化から離反がなされた状況について自覚されていなかったのであります。まさにそんな世界史教育がなされていなかった状況によって、トスカネリの地球球体説が新たな考え方と見なされていたと言えましょう。



そもそもエラトステネスとトスカネリとでは、地球球体説を取り囲んでいた世界観については異なっていたように思われます。

エラトステネスの場合は数学知識や自然科学の時空間を基礎として発想された球体説のように思えるのですが、しかしトスカネリの場合はもっとキリスト教的な一神教を基礎にしたように思えてならないのです。

少なくともトスカネリからすれば、キリスト教世界観に不満を持って地球球体説にいたったわけではないでしょう。むしろ現行キリスト教の内容充実の改革でありまして、伝統的一神教に基づく追求によって示された球体説と考えざるおえないのです。

たとえばトスカネリ (1397-1482) と同時代には【知ある無知】と【反対の一致】という世界観構想を持っていたニコラウス・クザーヌス (1401-1464) がいましたが、そこには何か一神教を基礎にした、つまり反キリスト教的ではない科学思考が伺えるわけなのです。

クザーヌスの用語 「知ある無知」 de docta ignoranta と 「反対の一致」 coincidentia oppositorum をもう少し詳細に述べるならば、おおよそ次のようになります。


【全知神を前提とした無知状態を踏まえて】

【両対置の同時進行】


「知ある無知」 のラテン語を英語に直しますと on learnd ignorance となるようですが、まさに―――――【学ばれたる無知】―――――とは "全知神から判定する人々が無知であること" と同時に "人々が無知であることで生じている現実結果について全知である神の仮定" によって支えられていたと考えられます。要するにソクラテスの 「無知の知」 は前者を広めようと試みた考え方であったのに比べて、さらにクザーヌスの場合は後者を付け加えた感じであります。

「反対の一致」 の coincidence については、英和辞典からして 「一致」 というより co-in-cidence 「一緒に落下に入る」 と言った雰囲気に感じられます。つまりギリシャ語の 「テーゼ」 にたいする 「アンチテーゼ」 という反対物との総合を目指す論理的な弁証法からの一致ではなくして、存在的に異なったもの同士の "Aから見えるBの反対性" と "Bから見えるAの反対性" という、神の全知を前提した上で帰結される相対的反対性の一致と考えられます。

ですから 「反対」 については 「両側からの対置物」 として 「両対置」 と直してみたわけでして、ラテン語 oppositorum を cooppositorum と可能であれば書き直したいと私見ながら感じています。



そうしたクザーヌスの二つの概念から何を言いたいかと申しますと、トスカネリの地球球体説の根拠として働いたり、もしくは球体説の帰結と一緒になって融合されたものではないだろうかということです。

もし月に自分がいると仮定するならば、太陽が球体であることは月から目視できますが、月自体の球体は目視できません。そうした事情がクザーヌスの言う【知ある無知】であり、神様から見えるであろう月の球体性という【理論可能性】を保証するのであります。

すれば月から見れば太陽の球体が目視できるのにたいして、太陽から月を見た場合にどうなるかという理論的想定が【反対の一致】と合わさるわけであります。つまり "太陽から見る月という映像" と "月から見る太陽の映像" の両方について全知の神様が知っていると前提することは、【知ある無知】のもとで想定領域が保とうとするクザーヌスの方法と重なるものでありましょう。

ですからトスカネリの地球球体説とは、そうした目視できる太陽や月の球体性から、【知ある無知】のもと逆の【反対の一致】を想定しながら、太陽や月から見えるであろう地球についての映像を吟味した帰結と思われるのです。



おそらくトスカネリを始めコペルニクス、ケプラー、ニュートンらは、キリスト教の一神教世界観を継承していたでしょう。つまり科学を宗教知識の改革打破とは考えていたのではなく、むしろ宗教知識を基準としてその改革を試みたと言った方が正しいでしょう。特にアインシュタインの特殊相対性理論が出来上がる過程にはクザーヌスと等しい世界観が働いていたと感じますし、逆に働かなかったなら仕上がらなかったと言っても間違いではありません。



以上からトスカネリの地球球体説をキリスト教の普及で忘れ去られたエラトステネスやプトレマイオスの再生 (ルネサンス) と見なすのは誤りであり、むしろキリスト教を基礎とした再生だったと考えなければならないのです。今や現在の世界史用語として 「ルネサンス」 と呼ばれていますが、古代からルネサンス期までの時代では現在のような世界史知識の教育がなされていなかった事実自体についても、同時に世界史の事実として考えに入れる必要が我々にはあるでしょう。

最後にクザーヌスの【知ある無知】と【反対の一致】に隣接する考え方を幾つか紹介して終わりにいたしましょう。



スピノザの汎神論

ライプニッツのモナド論

ショーペンハウアーの天才・凡人論

サムナーの外集団・内集団、エスノセントリズム

マンハイムの知識社会学

アインシュタインの特殊相対性理論

フェスティンガーの認知的不協和の理論






当たり前の話ですが、月から地球を撮影した時に、はじめて地球が丸くなったわけではありません。



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  1. 2012/03/27(火) 06:58:53|
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