思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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知識社会学

"宗教的知識から科学的知識への妥当性"という歴史的変革の立場から言わせてもらうが、私にとって現在の権威ある社会学とは、ほとんどある特定多数の人々に信頼性を得ているにすぎない宗教的知識に見える。これから先、どのくらい先のことになるのかわからないが、いずれ知識社会学が広まった時代が来れば、明らかになることだろう。例えば今の時代、「ひょっとしたら本当は地球を中心を天体が回っているかも知れない」と考える人はいるだろうか?もし知識社会学の意義が理解できたのならば、同様に現在の大半の社会学では考慮されてこなかった領域が明らかになり、逆もどりできない理念を知るようになると言っておきたい。

まず現在の社会学を見れば、それは多岐の分野に分けられている。その中の一つに知識社会学も振り分けられているのだが、社会を解釈してゆく基礎となる理念的枠組なり理念的図式の特異な領域が、知識社会学には宿っているのである。
簡単に知識社会学が潜む、他の社会学理論と異なる点を言っておこう。それは【性格論的解釈】と【知識論的解釈】にあり、知識にたいする理論的前提に関係する。
例えば、どうだろう。従来のお盆や正月の帰省の際、それほど渋滞予測情報が流されてていなかったところに、新たにテレビなどで帰省ラッシュ予測情報が流された場合を考えて見ればよい。その渋滞予測は過去の事例を参考に導き出された知識だが、それを見た人々は渋滞を避けようとその新たな渋滞予測を参考にした結果、予測とは大きく異なる現象が起きる。その渋滞予測が性格論的理論に当てはまり、その情報に影響された社会的結果を考察するのが知識論的理論なのである。


知識社会学の方法を理解するにあたり、ひとまずは大きく二つに分けてみたい。それは一つに、知識"形成"の社会学、もう一つに知識"所持"の社会学である。前者の【知識形成の社会学】とは、知識が形成される社会的要因を追求する分野で、心理学的領域に属する性格形成論などへの反省を求める。性格とは、社会的環境を要因によって形成されるものではあろう。しかしそれは個々人が知識をそれぞれの形で抱いていき(知識形成論)、その様々な知識を抱いた個々人の集まりの中(知識所持論)で、ある種の個性化された性向が生じた結果で、"知識を所持している個々人の社会的集まり"が大きな要因となっている。また知識とは個人的才能にのみ依存するものではないし、特にある程度の影響を持つにいたる新規の知識については、なおさらその時代、その文化圏の社会的要因に支えられた結果である。知識社会学を説いたマンハイムの著書、「イデオロギーとユートピア」1929(中央公論社 世界の名著56 参照)の序文では、知識形成に関して、従来は"認識論的方法"と"心理学的方法"が主観内部の発生源から説明しようとしていたに過ぎないとし、新たに"社会学的観点"を導入した。他にはアメリカのフェスティンガーの「認知的不協和の理論」1957にも、周囲他者の影響を受ける個人的知識形成状況に触れられている点で、知識形成の社会学の意味合いが深い。
一方、後者の【知識所持の社会学】の観点に立つものには、ヴェーバーの「プレテスタンティズムの倫理と資本主義精神」1904が挙げられる。それはプレテスタンティズムの理念を抱くこと(知識所持状況)により資本主義傾向が促進されたことを著した知識社会学の立場にある。また知識社会学の分野で語られることのないフランスの社会学者デュルケームの「自殺論」1897にしても、カトリックよりはプレテスタントの方が自殺率が高い資料的事実にふれ、自由検討の精神や知識の発達による社会的状況を考察し、一種の知識社会学的な観点を見せている。ヴェーバーといい、デュルケームといい、西ヨーロッパで発生した新たなプレテスタントによって、言わば伝統カトリックとのちがいから、全般的人々が抱いている知識と社会的状況との関連性が感じられるようになった時代なのであろう。
知識社会学的立場からすれぱ、資本主義社会とは封建的体制によって抑えられていたものが、徐々に解放されてきた個々人の欲求の結果ではなく、ある知識所持状態における一形態に過ぎない。自殺は個人的事情や社会的境遇といった性格論的に解釈で満足できるものではなく、知識所持をしている人々の相互作用の結果である。

要するに知識社会学とは性格論的理論批判の礎である。性格論的理論とは、自らの世界解釈イメージに集中したり、その理論の社会的【効果】を期待する、キャンバスに描かれた知識に満足する写実主義、自然主義で、決して自らの性格論的理論の現実の【影響】を見ない。自らは現実を解釈しているつもりでいるが、その解釈の現実的影響を見ていないのである。知識社会学者とは、写実主義者がキャンバスに描いている姿を描かなければならないし、その仕上がったキャンバスを見に来ている人々を題材にして絵を描くこととなる。同時に、自らがキャンバスに向かっている姿、その作品の人々の反応も意識し続けることとなる。

現在の知識社会学の扱う知識の研究領域を見れば、相当限られた事柄に留まっている訳だが、将来の知識社会学では、あらゆる知識、人生観、世界観など人間が抱くすべての理念を対象とすることになってゆくだろう。当ブログで残した日本の歌謡史、自由観、寛容観、孤独観の社会学はそうした試みの一部である。言ってみれば知識歴史学という分野を立ち上げでもってよかろうし、知識社会学は知識歴史学に普遍的に適用しうる形になってゆくだろう。(実際、現在までの歴史に関する著書の中にも、すでに知識歴史学的な観点を色濃く残しているものがあると思う。)現在の普及しているあらゆる知識、またあらゆる知識を所持している人々の活動も、知識歴史学の研究対象なのである。

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  1. 2010/03/29(月) 10:03:11|
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