思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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四天王と日光月光菩薩 ~政教の役割分担~



東大寺には天平美術に分類されている四天王と日光月光菩薩がいる。 「いる」 という言葉づかいが正しいのかどうか、よくわからないが、とにかく見たことがある。

そこで思うのは、四天王と日光月光菩薩の表情のちがいである。

おおよそ四天王とは、小さい時に怠けていたりイタズラしていると、どこからか親たちや先生たちに憑依してくる強面と言ってよい顔をしたやつである。



(東大寺・増長天)

その点、日光月光菩薩さんを現代風に言えば、それは和み系のお顔をしている。たとえるならば、「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」 と僕らの味方についてくれたお爺ちゃんやお婆ちゃんだ。



(東大寺・日光菩薩)

まあ~年を重ねてくると、かの日光月光菩薩たちは子供の味方についてくれていたのではなく、一種の行事みたいなもので、あらかじめ怒る役と庇う役に分担されていたんだと悟るわけである。



さて問題は、古代の四天王と日光月光菩薩の双方がいる役割分担についてのイメージである。藤原北家の摂政・関白と皇族の天皇の関係は、その [強面・和み系] に合わさった [摂関・天皇] であったのだ。そして院政になると [強面・和み系] が [天皇・上皇] に変わったのである。

それは別に日本に限ったものではなく、ゲルマン人のクローヴィスの改宗 (496) からは西欧においても [皇帝・教皇] の役割分担の社会観が浸透したと言えよう。


[強面・和み系] という分類は、政教分離と言われる [政治・宗教] とも共振したイメージでもある。仏教が浸透した日本の平安時代では 「神は仏の化身」 と考える本地垂迹説 (仏本神迹説) とは [神道・仏教] をイメージしたものと言え、[天皇・仏教] も意味していよう。つまり仏教は中国や朝鮮半島を覆っている普遍的なもので、日本の神とは日本に限定された一つの化身と思われていたと考えられます。

ただし鎌倉時代末期の蒙古襲来により反本地垂迹説へ (神本仏迹説) と反転したイメージも生じ、伊勢神道の度会家行がその代表とされています。それは [仏教・神道] になったことを意味し、仏教の世俗化もあって [天皇・神道] という対外意識とも言えます。



平安時代は [摂関・天皇] から院政の [院司・上皇] へ移り、そして [平氏・上皇] となった感じである。しかし必ずしも前者が政治権限を握っていたことを意味せず、院政の場合は後者の上皇が院司を動かす権限がありました。

そうした経緯から生じた鎌倉幕府では、二重の [政治・宗教] という関係性が表立って来ています。つまり伝統的な神道・天皇を後盾とする [幕府・皇族] にたいして、幕府内に隠れた [将軍・執権] の構造が新たに割り込んで来たのです。

鎌倉時代になって新たに東大寺にやって来た運慶・快慶がこしらえた金剛力士像とは、何を意味するのであだろうか?それまでは [四天王・菩薩] で間に合っていましたが、さらに見えやすい場所に金剛力士がやってきては、新たな [金剛力士・四天王・菩薩] という三段階によって [将軍・執権・皇族] を示唆したかのように見えます。

ともかく承久の乱における後鳥羽上皇からすれば [幕府・皇族] までならまだしも、それを建て前とした陰の隠れた [将軍・執権] が許せなかったにちがいでありません。やがて承久の乱で執権体制を守りきった北条氏は、[将軍・執権] のもと、源氏将軍、摂家将軍、皇族将軍と交替させることで [政治・皇族] の侵入を追いやり、自らの [将軍・北条氏] を継続させたわけです。

まさに後醍醐天皇はその追いやられた [政治・皇族] の復権を目指し、[将軍・北条氏] の構造を終止させようとしたのであります。そして建武の新政に無理を感じた足利尊氏は、南朝の [政治・天皇] にたいして北朝へ向かい [将軍・天皇] としたのです。

それは鎌倉幕府の体制と似ている感じがしますが、鎌倉幕府の場合は京都・皇族と鎌倉・幕府と離れていたのにたいして、尊氏は近くに拠点を置き、しかも [将軍・執権] という裏方一極執権体制とは異なる [三菅領・将軍] のもと、[将軍・皇族] の名目によって安定を保ったと思われます。



要するに日本に限らず、世界の歴史は【権限・後盾】の世界観イメージによって変化して来ているのであります。

四天王や金剛力士は、ただ個人的事情で怒り顔しているのではありません。それは世の安寧を願う日光月光菩薩の後盾があってのことなのです。

マックス・ウェーバーで広まったカリスマ的支配という用語とは、言わば合法的支配や伝統的支配と等しい領域にあるでしょう。

合法的支配は [権限・合法]、伝統的支配は [権限・伝統] であり、カリスマ的支配も [権限・カリスマ] である。合法や伝統の場合はある程度の解釈がなされる事柄であるのにたいして、カリスマの場合は得体がわからないものであり、その権限発信元に目が奪われてしまう点で異なっているようなものでしょう。

つまりカリスマ的支配とは、被支配者のものの見方によって持続されながらも、しかも得体がわからない後盾が働いているものであります。別にヒトラーの内部にカリスマがあるわけではなく、ヒトラーとそれを支えている被支配者たちによって成り立っているのですが、その成立にヒトラーの特質にあるように関心が注がれるがゆえにカリスマと認識されているのであります。

ですからチャップリンからすれば、それはカリスマ的支配ではなかったのであります。ヒトラーの仕草や演説に社会的な共有理念の浸透を見れるならば、そこには発信元のヒトラーの内部に関心が集中するだけではなく、発信された社会的効果の持続恒常化に関心が及ぶため、それは合法的支配や伝統的支配と等しい権限発信の結果と認識されることとなります。

もしヒトラーの演説に人々が群がった不思議にカリスマを見ようとするならば、合法的支配や伝統的支配に群がることについても不思議を感じカリスマを見なければなりません。要するにカリスマ的支配とは、合法的理念や伝統的理念とは異なった【得体が知れない理念】の社会的浸透であり、ヒトラーの性質ではなく、そのヒトラーが発信していた理念に目を向ける必要があるわけです。



そこで日本史における四大・氏族権限を勝手に決定してみますと、それは藤原氏、北条氏、足利氏、徳川氏であります。


藤原氏 (810-1068)

北条氏 (1221-1333)

足利氏 (1338-1467)

徳川氏 (1615-1867)



藤原氏 (中臣氏) の活躍は古くは大化改新 (645) まで遡れますが、不比等への橋渡しは継承体制が整っていた結果ではありません。また天然痘の流行で弱体化 (737) した後、道鏡を下し光仁天皇即位 (770) からある程度の権限を維新している感じもしますが、藤原冬嗣の蔵人頭の就任 (810) を起点としました。

北条氏については大元広元と一緒に執権 (1203) となり、和田義盛を排し独占化した (1213) 状態となりましたが、ここは承久の乱 (1221) を北条執権体制の始まりとしました。

足利氏の場合は、北朝側の光明天皇即位と自らの征夷大将軍任命 (1338) を始まりとし、分国化にいたる応仁の乱 (1467) を終焉としました。

徳川氏については豊臣家を抑え込んだ大阪夏の陣 (1615) を始まりとしました。



このように四氏の権限獲得体制と比べれば、平氏や源氏の場合はそれほどの持続性を獲得したとは言えません。実際、平氏・源氏の二氏を合わせても、平治の乱 (1159)から実朝の暗殺 (1219) までの百年足らずの短命でありまして、全く当時からして見れば、北条氏くらい早く反対勢力を見極め、それを抑え込む必要があったと言えます。

その点について話を加えておきますと、北条氏は自称・桓武平氏に由来する氏族であり、足利氏にしても清和源氏に由来する氏族でした。つまり平氏政権や源氏三代将軍にあやかろうとしていた周辺氏族の立場であったところ、肝心の中央政権が短命に終わってしまい、「もう少し~すれば」 と長期維持の要領について会話を交わしていた一族と想像してもよいでしょう。

桓武平氏系統の北条氏は清和源氏系統の源氏将軍に潜り込んで執権政治を獲得し、急進すぎた後醍醐天皇の復古主義にたいしては中間的な源氏幕府体制の復古とした、同じ清和源氏系統の足利氏です。

特に室町幕府については三菅領の斯波氏・畠山氏・細川氏らも清和源氏系統ですので、源氏三代将軍の終焉においては似たようなことを考えていた三氏だったのかも知れません。そうした三氏の分権体制だったためなのか、鎌倉時代のような北条氏の執権独占は避けれた足利将軍体制と言えます。



このように考えてみますと、分国状況の戦国時代から統一化を進めて来た織田信長や豊臣秀吉の場合は、さほど氏族の連携体制が整っていたとは言えません。特に信長の場合は家臣の明智光秀に倒されてからと言うもの、織田一族による継承ではなく、豊臣秀吉が受け継ぐことで落ち着きました。

しかしそれは信長の継承配慮の欠如ではなく、反対に氏族体制を軽視しなかったゆえに統一化の先導役を担えた結果と思えてきます。

「大うつけ」 ――空っぽ者?――と呼ばれていた信長は、おそらく 「平家物語」 の祇園精舎の鐘の声のごとく、世の中の方に小手先的なやり方 (空っぽ) を見ていたことでしょう。織田家自身の一族継承よりも教育係だった平手政秀の自決、尾張の喝采よりも五十年の人生を見ていた信長と思われます。

おそらく応仁の乱以降はそれぞれが外敵から自国を守るために団結し分国化したわけですが、新たな統一化には逆に自国囲い込みの団結意識を払拭する必要があったのです。

たとえるならば、古代ギリシャのポリス分立状態からローマ帝国の進出拡張がなされたようなものです。古代ギリシャの分国化 (ポリス) では自国繁栄 (戦争も含めて) のために知恵を使っていたの比べて、ローマ帝国は 「強きをくじき、弱きを助ける」 で進出したのです。

つまり自国結束を優先したままで他国に勝利した場合、後々は反乱を起こされる可能性が大きくなるため、その反乱防止の対策に多くの知恵が用いられることとなりますが、しかし他国の強きをくじき弱きを助ける場合には、次の戦における功労報酬にもともとの自国と他国の区別が少なくなるため、統一化の可能性も広がるのであります。

おそらく信長には氏族結束からの離反やローマ帝国的な進出理念が働いていたと思われます。信長の特徴としてあげられている粗雑な態度とは、貴族的団結や一族的団結の欠如を意味し、かつ自らの粗雑な態度を示すことによって相手の価値判断を確かめていたと言えるからです。

信長は分国化の構造を市・座・関所と重ねて見ながら、その特権を取り除いた。つまり分国化とは上層階級の特権獲得闘争であったのであり、信長は大名たちとの同盟もしくは戦争で商業を中心に解放したのだ。

結局のところ室町幕府の三菅領とは足利将軍にぶら下がる大名クラスに自己君臨意識を芽生えさせることとなり、同時に下層階級の反乱発生により分国単位による統治者の必要性が求められるようにもなったのだ。

それは古来の [四天王・日光月光菩薩] の意識が薄れたことを意味し、新たに信長が四天王役になることによって統一化が進められることになったのだ。

では、後盾なっていたのは何だろう。

武力だろうか?戦略だろうか?


多分それは、自分を棚に上げて 「大うつけ」 と人を呼ぶことについての社会学的知識だったと思う。


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  1. 2012/03/06(火) 07:02:24|
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