思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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蘇我氏と中臣鎌足 ~皇族観による時代変化~




ここでは平安時代の摂関政治へと向かう蘇我氏と中臣鎌足 (藤原氏) の皇族観について検討妄想しておきたいと思う。



まずは崇仏論争 (587) で蘇我氏が物部氏を下してからと言うもの崇峻天皇 (即位587) と推古天皇の時代には、すでに皇族との血縁関係を持ち始めていた蘇我氏でありまして、皇位継承についても相当の手出しをしていたようであります。

一方の摂関政治へ向かうこととなる藤原氏 (中臣氏) の場合は、長屋王の変 (729) あたりから皇族婚姻関係による政界進出が顕わになり、承和の変 (842) の頃には他氏排斥の力を持ち始めていた感じです。



さて摂政の初期段階については、蘇我馬子の姪にあたる推古天皇が半ば聖徳太子を代理政治にあたらせたことにあり、干渉してくる蘇我氏勢力にたいしての皇族領域の確保、もしくは皇族による新たな人選優位を示した形です。

しかし聖徳太子 (622没) と推古天皇 (628没) が亡き後では、再び蘇我蝦夷や蘇我入鹿が皇位継承に入り込んでくるようになりました。つまり皇族側にしても全体的なまとまりがなく、新たな知識指導の地位を次世代へつなげてゆく体制継承の慣習が皆無であったため、一代のみの摂政体制となってしまったのです。

そんな蘇我氏と皇族の混乱状況にたいしては、中大兄皇子が中臣鎌足と連携して文化の改新 (645) を施し、新たな皇族による人選の意識が芽生えることになった感じだ。

しかし注意しておきたいことは、中大兄皇子が戦ったのは蘇我氏なのではなく、あくまでも一部の皇族領域へ干渉して来た勢力にたいしてだけだった点である。実際、蘇我勢力の分断を図ったのが文化の改新であったのであり、蘇我石川麻呂の自害 (649) しても、異母弟である蘇我日向の密告が絡んだものとされているとおり、天皇側からの人選体制によって蘇我氏勢力がかなり振り回されていた感じがします。

そうした結果、皇位利用による蘇我氏の野望もほとんど収束し、それなりの地位を保つ程度で落ち着くこととなった蘇我氏と言えます。



なるほど中大兄皇子が中臣鎌足に期待したこととは、おそらく聖徳太子に期待した推古天皇を参考にした結果だったのであろう。

ともに出しゃばり系の蘇我氏を抑えながら、その勢力を番犬役として利用したような感じであり、またともに補佐役の太子や鎌足を信頼し、それを守ろうとしていた雰囲気がするわけである。

ただ推古時代は皇族同士による若手才能の抜擢であり、中大兄皇子のような新規なる年長才能の抜擢とは異なっています。現代風に言えば、若きプリンス橋下市長が中大兄皇子役で、ろくなポストが与えられなかった年長の古賀茂明氏を中臣鎌足のように尊重しつつ採用している形なのです。もっと言っておくならば、こそこそ系の根回しに一生懸命であった 「ハシズム」 とかで批判宣伝していた連中や自らの政党利権を守りたい政治家たちが、今まで権限顔を振り回しては威張ってきた蘇我氏に相当するのであります。



明らかに蘇我氏と中臣氏では、皇族にたいする見方が異なっているのです。

推古天皇・聖徳太子の体制がなくなった後は蘇我氏と皇族を交えた権限争いとなりましたが、天智天皇・中臣鎌足の体制がなくなった後は皇族を中心とした争いである壬申の乱 (672) でありまして、さほど中臣氏 (藤原氏) は首を突っ込んではいません。

むしろ中臣鎌足の堅実なる調整役の意義を感じられたのでしょうか、新益京の中心である 「藤原宮」 という名称から察せられるとおり国家意識の手本とされていた鎌足なのです。



藤原氏も蘇我氏と同様に皇族との外戚関係によって政界進出を進めました。後々の鎌倉幕府における [天皇・幕府] の関係は、西欧でいう [教皇・皇帝] の関係に似ていますが、蘇我氏も一種の天皇を教皇とする自らの皇帝化を目指したようなものだったのかも知れません。しかし中臣氏の場合は、天皇を皇帝とする自らの教皇化、もしくは知識人化と言った方がよさそうなのです。

まさに聖徳太子は女帝・推古天皇の下、皇族という立場から知識階級の領域を確保し始め、中大兄皇子がそこに中臣鎌足を所属せしめたと考えられるでしょう。さらに推し進めるならば、推古天皇が聖徳太子に政治哲学の地位を授け、そして中大兄皇子がそこに中臣鎌足を位置付け、平安時代の藤原北家の摂関政治につながった形であります。

すれば蘇我氏とは、政治哲学の地位が定まっていない時代に天皇の教皇化を試みる自らの皇帝意識に留まっていたと言えるでしょう。


藤原北家の摂政とは、聖徳太子や中臣鎌足の知識階級が一代で消化されてしまい、その後の蘇我氏の専制や壬申の乱のような混乱を回避するための一つの持続的な知識階級の設立を意味します。つまり藤原北家はその自らの知識階級の役割を皇族に同意してもらったような形です。(810年、嵯峨天皇による藤原冬嗣の蔵人頭任命)

藤原北家と外戚関係がない後三条天皇の即位 (1068) から始まった堀河天皇への譲位による白河上皇の院政の開始 (1086) とは、要するに藤原知識階級からの離反と経験を積んだ長老上皇への知識階級の移譲もしくは奪回と言えます。

そして平将門の乱 (940) や平忠常の乱 (1031) とは、臣籍降下となった桓武平氏 (889年の平高望の血筋) の東国反乱 (関東圏) が起き、清和源氏 (960年?の源経基の血筋) が中央政府からの鎮圧依頼で勢力を拡張しています。

やがて院政勢力は僧兵との均衡のため桓武平氏の流れをくむ伊勢平氏を登用しました。そして皇族、藤原氏、平氏、源氏がそれぞれ分断した保元の乱 (1156) にいたり、知識階級の権限は複雑化し不確かな時代の幕開けとなりました。


そんなわけで 「怒り新党」 を見習い、皇族と知識階級の新・三大連携を勝手に決めつけたいと思います。

1) 推古天皇と聖徳太子 (593)

2) 中大兄皇子と中臣鎌足 (645)

3) 嵯峨天皇と藤原冬嗣 (810)


はじめの二つには蘇我氏の勢力が大きく関わっており、蘇我氏と中臣氏の皇族観のちがいが時代を変えたと言えます。そして三つ目の藤原北家の摂関政治へつながった連携については、一代で終止することがないように定められた点では評価できますが、秘密裏の囲い込み体制の設置という点で問題を残していました。

そして藤原摂関政治からの離反を意味する後三条天皇の即位にはじまり保元の乱によって、古代における皇族と知識階級の連携体制が終焉を迎えたと言えるでしょう。



どうやら日本の文化は、天皇・皇族についての考え方で歴史を刻んできているようです。


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  1. 2012/03/02(金) 18:29:17|
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