思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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光のどけき春 ~期待像と現実観~




さて1983年の流行歌 「春なのに」 の日本古来の過去へとたどってゆくならば、少なくとも10世紀初頭の 「古今和歌集」 まで遡ることが可能であろう。



久方の 光のどけき 春の日に

しづ心なく 花の散るらむ

紀友則 (845?-907)



つまり無意識ながらも【光のどけき春】の持続を期待していたところ、予期せぬ【散る花】の現実が舞い込んで来た歌であり、【光のどけき "春なのに" 花が散った】なのである。あるいは和辻哲郎の言葉を借りるならば、万葉集と古今集の比較によって、「落花を惜しむ心を花に投げかけて心ぜわしくと感じている」 と考えられている。( 「日本精神史研究」1926 )

しかし彼の場合は 「本来相即したものである春日と落花とを、不自然に対立させるというわざとらしさが現れている」 と続けているのだが、それは言い過ぎであろう。 「光のどけき春」 とは、 "不自然" や "わざとしさ" なのではない。【平穏持続の期待像】と【そこから外れた現実確認】の対比によってなされる "現実認識" である。

おそらく和辻は万葉集の側から "自然" を前提したがゆえに、古今集の側に "不自然" を見たのだと思われます。また友則が抱いていた平穏持続の期待像とは単なる個人的な趣味ではなく、人々に浸透していたところの社会的な期待像として扱われているのであります。

確かに和辻も 「枕草子」 について語るには、【あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感じしめる様態】にたいして、"意力を欠いた安易な満足もしくは軽易な涙による感傷性" と清少納言の "静かで細緻な観察" の二種類に区別しています。しかし彼は友則の【光のどけき春】を安易に【散る花】を強調するための小手先添付であると前者の感傷性演出と判断してしまっているのであり、皆が【光のどけき春】に励んでいる中で人知れず【散る花】もあることの示唆である後者の観察結果とは考えもしなかったのです。

それは和辻が漱石らの反自然主義の立場から万葉集の立場に立ち、そこから一方の田山花袋や島崎藤村らの自然主義に古今集の特質を重ね見て考察したためであろう。つまり自然主義文学のいう 「自然」 は不自然でわざとらしいと言いたかったようなものである。

さらに古今集を酷評したとされる正岡子規が漱石と親交があったとおり両者は反自然主義の立場を共有していたと言え、和辻も子規や漱石と同じ立場に立ったつもりで古今集を考察したようなものであった。

和辻の 「古寺巡礼」1919 とは古今集の平安京都ではない奈良仏教への巡礼であり、漱石の 「それから」1909 に触発された白樺派の有島武郎も若手著書の 「古寺巡礼」 を受け自ら奈良へと出掛けたとのことである。しからば有島の 「惜しむなく愛は奪ふ」1920 も一種の反古今集としての万葉集擁護の雰囲気を醸し出しているものかも知れない。

遡ること契沖の 「万葉代匠記」1690 から和歌分類の解釈の素地が作られたのだろうか、【ますらをぶり】の万葉派・賀茂真淵 (1697-1736) と【もののあはれ】の古今派・本居宣長 (1730-1801) と解釈されて行った感じである。

いやはや万葉派の正岡子規が 「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」 と読んだのは、奈良を扱った 「古寺巡礼」 と共振していよう。きっと子規は自身の一身上もしくは歌づくりに励んでいた中、ちょっとした一休みに柿をかじった時に法隆寺の鐘の音を聞いたのである。

それは自分の肺病結核のあはれを歌うのではなく、歴史的に伝承されてきた教えによって世を考えているだろう鐘つき坊さんについて子規自らが想起した瞬間を歌ったのである。まさに子規は、自身の【いま・ここ】を歴史的な全時空間の一点として見たと同時に、全世界の各個人の【いま・ここ】も想起したのだ。




話をもどそう。

1921年に小学校から大学までが春の卒入学に統一されたことにより、1945年の終戦にいたる特攻隊作戦へある程度の影響を与えたであろう 「光のどけき春に散る花」 という美学の原型素地が浸透したのである。また 「古今和歌集」 や 「枕草子」 を参照にしたであろう明治唱歌 「蛍の光」 や 「仰げば尊し」 の時に動き始めていたものかも知れない。

しかし、その 「光のどけき春に散る花」 の美学は、日本全体に均等に浸透していたのではない。実際、子規や漱石に有島武郎や和辻哲郎などは反対していた勢力であったのだ。

仮にその時々の全般的な浸透状況について皆ほとんど等しく感覚的に認知しえたと考えたとしても、各人の考え方の違いから全般的雰囲気の解釈の内容は異なっていたのである。

つまり 「光のどけき春に散る花」と は、終戦間際の日本全体を覆っていた過去の一時的な時代理念だったのではなく、終戦間際においても各人においてバラつきがあり、また今日においても弱まり形を変えてきているとは言え浸透しているものなのである。

ですから 「光のどけき春に散る花」 とは戦中の特攻隊作戦に働いていただけではなく、ずっと明治から今日まで強弱の変動があったとしても浸透してきているものであって、戦中の特攻隊作戦に働いていた 「光のどけき春に散る花 」は他の様々な時勢の要因もあって特化した結果なのです。



そんなわけで、秋の卒入学時期の問題が話題となる中、その日本における伝統的な春の卒入学の理由について、単に会計年度の時期に合わせたものだったと考えることにたいしては疑問が残ります。

もしグローバルを意識した秋入学について検討するのならば、わざわざ春入学に統一してきた日本の事情についても注意を払いながら全世界中における日本の文化的位置を確かめ、また日本の特殊性発信や秋入学実施による意識変化のシミュレーションも始める必要があるでしょう。


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  1. 2012/02/26(日) 10:02:55|
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