思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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クレメンタイン

まず極簡単な歴史を記述しておくと、アメリカの西部開拓時代から生じたとされる「いとしのクレメンタイン」、1946年の映画「荒野の決闘」の挿入歌に使われている。日本での「雪山讃歌」は1927年頃に詩をのせたらしいから、「荒野の決闘」より先であり、1959年の紅白歌合戦で歌われたらしい。そして韓国では2006年、ドラマ「春のワルツ」の挿入曲に使われている。 YouTube


さて三国共通のものは何だろうと考えた時、一つに思い浮かぶのは"過去のなつかしい景色"が想起される点が挙げられる。アメリカでは、ある娘のいた水死する以前の景色、日本では山に来るまでの街の生活、あるいは山での生活を過去の出来事と見なしたものであり、韓国では年少時のなつかしい思い出が関わっている。そしていずれも、そのなつかしい過去の時点において、現在の自分自身の状況など、少しも予想していなかったことを思いつつ、漠然とではあるが現在に至った経緯(歴史経緯)を感じるのである。
アメリカの歌詞は、自らが助けることが出来なかった水死した娘を思っては、その娘の妹とのキスで、その彼女を忘れようとした。亡き娘の墓地に咲く花、死人を置き去りに生き残っている人々の生活と今は亡き人の影響の歴史経緯を、そっと示す歌詞であろう。
韓国の「春のワルツ」では、年少期の思い出が欠かせない曲(歌詞はなく、主人公がピアノ奏者である)として扱われて、双方の記憶のちがいで相愛の欲求と別離の決意の迷いが深く関わっている。オリジナルメロディーからの続編創作では、人々がそれぞれ自らの生活をなす群集内の自己が表現されている。人それぞれ過去を背負い暮らしている社会状況と過去を背負う自己を表しているかのようである。
恐らく「いとしのクレメンタイン」のメロディーとは、過去と現在のちがいから歴史経緯を思い描き、現在を過去からの結果と見る作用が働いたものであろう。日本の「雪山讃歌」も、一見縁がなさそうだが、その歴史経緯の漠然とした図式で解釈できる。一番の「俺達ゃ街には住めないからに」、なつかしい過去は"街"に集約され、過去には戻れないという意味も同時に象徴される。そして現在山にいる自己の状況を、過去の街の生活からの歴史経緯の結果として想起させる。最後の九番の歌詞を見れば、逆に未来の立場から、現在の山を過去に置き変えようとする。つまり現在も未来においては過去として思い出されるものとして解釈しているのである。

九番
山よ さよなら ご機嫌 よろしゅう
また来る 時には 笑って おくれ

「雪山讃歌」のような二重の解釈は、"過去を思い出し、現在までの歴史経緯を漠然なりとも想起すること"を、もはや一つの日常的パターンと解することで可能となる。谷崎潤一郎の「細雪」1948、今年も桜を見に来れた思うが、同時に、来年もまたこうして桜を見れるのだろうかと思い描くことと等しい。山口百恵の「秋桜」77、「明日嫁ぐ私に、苦労はしても、笑い話に、時が変えるよ、心配いらないと、笑った」と、母の過去から現在までの歴史経緯が、娘の未来から見る現在の嫁入り状況を重ねたことも同様である。これは日本特有な文化の一側面を示していると、私は考えている。
以上のように日本の「雪山讃歌」は、アメリカや韓国とは異なって、"歴史経緯の想起"がパターン化されているため、全面に歌詞に表れていない。むしろ未来へ向かう意志と苦難の緩和の方を主題としている。「青春時代」76、「青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの」のような感覚から、とにかく未来へ向かうと喩えられよう。
反対にアメリカと韓国の場合も、未来への歩みが表されている。亡き娘への思いにくよくよしていても仕方ないと思ってか、亡き娘の妹とのキスでその思いを断ち切っている。「春のワルツ」では、現在までの歴史経緯を互いに理解した上で別離の決意をし、ピアノ演奏会で最後の「クレメンタイン」を聴く。(その後のドラマ展開は別の問題とする)それは互いに自分の未来の方向性を見つめ始めた場面で使われた。
アメリカや韓国と比べれば、日本は未来志向の比重がちがう。日本は、やたらと未来志向が歌詞に散りばめられているが、アメリカの歌詞は妹とのキスによる新生活への転換くらいであるし、韓国の歌詞では殆ど皆無で、ドラマ「春のワルツ」に見られる、ピアノ演奏者と聴者とのそれぞれの歩む道の確かめ合いである。こうして見れば、日本は言語で未来志向を言い聞かせ合う文化と思えてならない。現在の「前向き」の連呼にしても同様で、他の文化圏もそうなのか気になるところである。
「前向き」とは結局、各人それぞれの未来志向を意味するが、それは裏を返せば、社会への無関心、他者への無関心を意味する。アメリカでは亡き娘の墓地の傍らに咲く花に亡き人の影響を象徴させている。泳げないために助けることができなかった自分の過去の影響を象徴させている。韓国の「春のワルツ」はドラマ自体、相当量の過去における自分が与えた影響を盛り込んでいる。日本の「雪山讃歌」に過去に他者へ与えた影響の想起が描かれているだろうか?現在の仲間同士の協力や生活を描いても、過去の自分が与えた影響を描かれてはいない。日本は色々災いがあっても、それはお互い様なのであり、「また来る時には笑っておくれ」、と過去を互いにいい思い出だったと笑い話になることが主題となる。中村雅俊の「いつか街で会ったなら」75、中島みゆきの「時代」75、山口百恵の「秋桜」77はその日本的理念を色濃くあらわした曲に相当する。(中島みゆき氏は90年以降、時代変化にともない社会的状況を新たな主題に仕始めている)その社会的無関心ため、80年代以降の新規社会観による進出にたいする充分な監視能力が働くことがなかった。と言うより、その監視能力の無能力さを利用して、新規進出が行われ始めたのである。
まあ私としては、「雪山讃歌」の歌詞に日本的な特質を感じ、そのメロディーには、過去から現在にいたった自分自身の与えてきた影響、あるいは他者から受けてきた影響について、感謝や後悔の念もなく、ただ我々が理解しようがしまいが日々流れてきた出来事の想起として聴いてもらいたい一曲である。

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  1. 2010/03/27(土) 00:37:53|
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