思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

イランと旧約聖書




最近、イランとイスラエルの間に対立が生じているらしい。何やらイランの高濃縮ウラン核開発の発信にたいするアメリカを先頭とする欧米諸国の反発に合わせて、宗教問題が絡んだイスラエルとイランの対立が浮き彫りになってきた感じのようだ。

詳しい事情はよくわからないのだが、どうも遡ること宗教的対立であった【1975年のレバノン内戦】から【1982年のイスラエルによるレバノン侵攻】が今日まで尾を引いているように思われる。と言うのも、イラン内の【革命防衛隊】とレバノン内の【シーア派ヒズボラ (神の党)】とは深い関係にあり、対イスラエルの理念を共有して来ているのである。

それにイランの【現アフマディネジャド大統領】にしても、イラン革命 (イスラム革命) の指導者【ホメイニ師】について世界の覇権主義に反対した被抑圧者の支援の側にあったと見ているらしいのである。



そこで信憑性のほどは保証できないが、私になりにイラン文化におけるモノの見方について想像しておきたいと思う。

まず言語学において 「インド・ヨーロッパ語族」 という分類名称が与えられた頃から、イラン文化圏では自文化の長き歴史性についてのプライド意識が生じたと考えられるのである。そうしたアーリアン学説の広がりについては、1859年のドイツのマックスミュラーに端を発したものと考えられており、まだ200年足らずの最近のことである。そしてペルシャ語で 「アーリア人の国」 を意味してきた 「イラン」 という言葉が正式国名 (1935) に採用したことからしても、その影響は大きいものだったと想像できるのである。

また20世紀初頭はイギリスやロシアの侵入に苦労していたイランであったわけでしたが、1905年の日露戦争において勝利した日本から民族独立性の可能性を見ていたとも言われており、先手覇権主義的な帝国主義にたいする対抗意識が認めておけましょう。



そんな状況の中、イランにおける自民族観も歴史を遡って解釈されて行ったに違いありません。

先のアーリアン学説も絡んでいたことは当然でしょうが、古くは紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャの、当時にしては史上最大の大帝国の樹立に自民族のプライドが結びついたとも言えます。

敵方イスラエル側が記した旧約聖書 ――― 「エズラ記」、「ネヘミヤ記」、「エステル記」 に加え 「ダニエル書」 ――― を見ましても、ペルシャ (イラン) はバビロン補囚からユダヤ人を解放した帝国と見なされているわけなのです。

特に 「イザヤ書」 45章1節の 「受膏者」 とはヘブライ語原書で 「メシア」 ――― ギリシャ語では 「キリスト」?――― に相当する 「救世主」 の意味にありまして、ペルシャのクロス王に解放的な帝国体制を印象づけるための一つの根拠となりえたものと思われます。



やがてバビロン補囚からユダヤ人を解放したペルシャ帝国は、紀元前5世紀に入ってからギリシャと争い失敗しました。このペルシャとギリシャの対立は、一つに専制帝国と民主ポリスの文化協力体制によって生じた戦略戦力の差と言えなくもありません。しかし単純に民主体制の側に普遍的な発展形態を結果づけれるような勝利とは言い切れないのです。

おそらく現イラン体制には、何らかの古代ペルシャ帝国に自らを重ねた解放指導者としての自画自賛的信仰が入り込んでいるかも知れません。しかしながら、一方的に民主化に乗り遅れた専制指導者の自己権威に陶酔したイラン体制と見るわけにはいかないのです。

一つハンナ・アレントの 「革命について」 を引用しておきますと、序章ではギリシャのトゥキュディデスの 「強者は欲しいままに振る舞い、弱者は困苦に甘んじた」 の記述にふれられ、第五章ではローマのヴェルギリウスの 「服従せる者を可愛がり、傲慢なるを打つ」 の記述を拾っています。

つまりペルシャ帝国には、すでにローマ帝国と似た統治帝国の理念を持っていたと見なしえるのです。



思えばイタリア・ルネサンスから近代化へ進んだ西欧とは、ある意味において皇帝派と教皇派に分かれた政教分離が影響した結果なのかも知れない。

それに比べてバビロン補囚を解放したアケメネス朝ペルシャは、皇帝中心の宗教従属が基本だったように思えます。後のゲルマン人侵入後のクロービスの改宗では、明らかに政教分離の状況が認められ、西欧社会と東方ペルシャ社会の相違が確定していた感じであります。

結局のところペルシャ・イランの地域は、ササン朝ペルシャが滅した7世紀以降、アラブ人によるイスラム教 (シーア派) を採用し、現在にいたった形です。そのイスラム教の採用はイランという言葉に 「高貴」 の意味が含まれているとおり、密かに皇帝意識を残しながら受け入れたものであったと考えられるのです。

イランにとってのイスラム教とは、日本にとっての仏教もしくは欧米のキリスト教と同じ外来摂取の結果なのです。全くイスラム教発祥のセム系アラブにたいして、印欧系の言語で大きく異なったイランなのですが、その軋轢はさほど大きくないように思われます。

1980年代の西イラク・東イランで国境を接したイラン・イラク戦争にしても、それはイラン人・アラブ人の対立ではなかったのです。むしろ西スンニ派と東シーア派の対立であり、イランがイスラム全般の革命を発信したことにたいするイラクの波及阻止が発端だったと言えます。



しかしイランは不思議な国であります。と言うのも、正規軍と革命防衛隊という二つの軍組織が一つの国に共存しているからです。

一般的に軍権力とは一極体制を目指すものであるため、早期一極化のためイラン内の内部紛争が激化するか、さもなくば対立牽制が働き国の二分化になると考えられるからです。つまりイランの二つの軍組織には、おそらく外国勢力を味方につけた内部抗争を行わないルールみたいな意識を共有しているのでしょう。

全く政教分離がなされていないイランなのですが、軍組織の分離がなされている点では、権力欲に安住した独裁専制国家ではないのです。それに最近ではイラン女性の忍術がYouTubeで話題になったりもしていますから、見逃せませんね。

イランの情報資料は少ないため何とも言えませんが、なかなかとぼけたグローバル自由化の覇権主義にたいしては戦ってくれている人々と思っちゃったりもします。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2012/02/21(火) 05:47:06|
  2. 世界史
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/398-e9d7d826
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。