思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ソシュールの言語学とドイツの世界観内言語

フランス語の【oi】について考察するにあたり、ソシュールの言語学はいかような立場にあろうか?

当方ではソシュール自身の言語学の詳細まではよくわからないため、現在にいたったソシュール言語学の一般的な継承状況を問題とするわけだが、一見したところソシュール言語学には【全般的な世界観の中にある言語】とは捕らえられていない感じである。

ソシュール言語学は 「記号」 signe にたいして動詞 signifier の現在分詞 signifant と過去分詞 signifie で解釈する。ソシュールの基準が 「記号」 であるのにたいして、同時期に生まれたフッサールの noesis と noema の解釈は 「判断中止」 や 「記号中止」 による指向性の自覚なのである。



フッサールの系統は、カント以来の懐疑性を踏まえた現状認識の吟味を行うドイツ的立場の現れであり、言語が思考 (世界観) を作ってきたこと (恒常持続化) の反省にあります。その 「言語が思考を決定する」 が意味するのは言語優位主義ではなく、逆にそれぞれの言語圏においてそれぞれの一定の思考傾向が習得されている歴史主義 (言語相対論) の立場から見た思考優位主義であります。

1940年代から広まったサピア・ウォーフの仮説も、そうしたドイツの歴史主義から派生したものであり、クーンの科学論でいう広いパラダイムの中に言語が位置していると見なす立場にあります。



しかしソシュールから派生したモスクワ言語サークル (1915)、プラハ学派 (1927)、コペンハーゲン学派 (1931)言語学には、ドイツに見られる思考形態や世界観の領域が希薄でありました。その理由は、ソシュールからの派生研究の場合は【言語にまつわる一般的法則の抽出】が先行し、【様々な言語圏における様々な生活様式の関連性を調べる歴史主義】の視座がなかったためです。

また langage、langue、parole による解釈図式とは、個人が生まれて習得されていく【言語と世界観の関係】は問題されず、ただある程度の言語を習得した人々を題材とした言語中心的な研究によって進められた分野なのです。



ドイツの世界観優位にある言語学から見ますと、langue とは個人内に形成された世界観や言語体系となります。そうした形成された langue を抱いている個人が langage 活動や parole 活動をしているのです。そしてドイツ言語学は parole 活動を軽視し、世界観の一部に含めた形で langue と langage 活動を見ます。

カッシーラーの象徴形式で言うならば、各個人が langue (象徴) を発する社会学の立場から言語を位置づけられます。つまりソシュールで言う langage 活動がカッシーラーの言う象徴機能に相当します。



では何故にソシュール言語学は、langue にたいして parole を並べたかと言いますと、それは【個人と社会】を問題とするデュルケーム的な観点にあったからでしょう。しかしドイツの言語学の場合は、フランス革命の合理主義にたいするドイツ精神からの反発があり、【集団と集団の衝突】の方を問題とする歴史主義の立場にありました。

ですからアメリカの社会学者サムナーが唱えた【エスノセントリズムの衝突】や【内集団と外集団の態度】に注意していたドイツの言語学と言え、ソシュールのような社会的 langue にたいする parole 活動ではなく、それぞれが langue で結束した文明同士の衝突を問題に含んだ言語学であります。

ある意味においてウェーバーの宗教社会学も同様です。様々な宗教を langue と見なし、その langage 活動と経済活動の関連性を示しながら世界史の解明につながる社会学を目指したものと言えましょう。



さてフランス語の【oi】について考えた場合、世界観を含めないソシュールの parole では、充分な結論は引き出さない形となっている点に触れておきましょう。

ソシュールにとって個人的発話 parole は言語体系 langue との関わりで考察されますが、それでは書き言葉 oi が 「ォワ」 と発声される言語体系の在処が不在なままなのです。

実際のところ parole 活動とは、個人が langue を参照してなされる結果だけではなく、また周囲の langue によって品評されるだけでもありません。他にも parole 自体が世界観の中で解釈されているのであって、自身を含めた人々の発話についての解釈によって parole 活動が規定されているのです。

どうだろう?書き言葉【oi】はむしろ【oa】と表記した方が、より実際の 「ォワ」 という発音に近くはないだろうか?

要するに、フランス語では書き表記 oi とその話し発音が一緒に組み合わさった世界観に支えられているであり、そのズレ自体が言語体系 langue に含まれていると見なすならば、ソシュール言語学にも納得できよう。

しかしソシュール言語学では langue と parole を社会システムと個人発話に区別する雰囲気が強く、結局のところ、各人が【人々の発話状況を観察してきた上で形成されてきたであろう世界観】を考慮していたとは言えないのである。

そもそも langage 自体、それは各個人の頭に記憶されている言語体系と見なす必要があったのだ。つまり大多数の人々が言語体系を信用し記憶していることが langue の存在論的根拠であり、langue 自体が社会性を保証しているのではない。もっと言えば、「langae 自体が社会性を保証する」 という権威的意見に逆らえない大多数によって langue の物象化が支えられているのであります。

私の仮説の是非はともかく、フランス語の oi は言語学においてものすごい変革を起こす言語活動のサンプルとなっていると言える。ソシュールは書き言葉 ecriture と話し言葉 parole を組み合わせた形で言語体系 (世界観) を考察しなかった。それはドイツ側のフンボルトやカッシーラーの言語学、あるいはサピア・ウォーフの仮説を元に、言語を包んでいる広大な理念体系を想定する必要があろう。



フランス語の【oi】は、【i】の発声を避けて【a】と発声すること、そして【i】の発声を避ける指令【o】という理念体系 (世界観) に支えられたものと想定しうる。それを日本の状況に照らし合わせるならば、互いに本音【i】を認めながらも、何らかの事情で建前上【a】と発声するような感じと等しいものである。



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  1. 2012/02/06(月) 17:32:18|
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