思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ムンクの叫びの社会学

ムンクの 「叫び」 って、中央の主人公らしき人物が発している叫びじゃなくて、周囲の叫びが聞こえているために耳をふさいでいるらしいね。今では、だいぶ知れ渡っている事柄なんだろうけど。

では何で二通りの解釈が出来るようになったかと言えば、それは自分と社会の関わり方の考え方にあるんだ。

【主人公が発する叫び】の場合、まるで社会の中を生きていく上での自分自身の努力に一生懸命みたい。もちろん主人公の叫びに社会の中を生きていく上で色々苦労している他者を重ねたりして共感しているのかも知れないけどね。

しかし【周囲の叫び声に驚嘆している主人公】の場合は、ちょっと社会の見方が異なっている。人々が周囲に広がっている叫びについて何も気がついていない中、何だか自分だけが聞こえてしまっている状況を意味している感じかな?つまり声なき声が聞こえない大多数の人々の中、声なき声が聞こえてしまう状況が、ムンクの叫びと言えるぞ。



実は 「ムンクの叫び」 とは、シェークスピアの 「リア王」1605頃? とテーマが重なった作品でありまして、たとえるならばコーデリア娘の男性版と言ったところなのです。



つまり左側の橋にいる友達二人が 「リア王」 で言うゴネリルとリーガンに相当していまして、ムンクやコーデリアに聞こえていた叫びは二人には聞こえていないのであります。

一般的に言って、友達や姉妹と仲良く生きて行くには、彼らと等しくその叫びを聞いてはいけません。しかし聞こえちゃいけない叫びが聞こえてしまっているため、正面を向いて 「人々が聞こえない叫びが聞こえちゃうよ~」 って、展覧会にお越しのみなさんにアピールしているムンクの叫びなのです。

今や有名なムンクの絵画であります。そんな状況の中、たとえば友達二人と一緒にムンクの展覧会へ行ったとしましょう。その帰り道、二人の友達は 「やっぱ、ムンクの叫びって、いいわ」 って色々楽しいそうに会話している中、自分だけが友達二人には聞こえない広い世界の叫びが聞こえちゃうようなものでもあります。

もはや有名となった 「ムンクの叫び」 自体が、三人娘の父にあたるリア王と等しい権威的存在となっている格好です。有名という権威にたいして当たり障りのない会話を行う協調を作っているのでありますが、その会話の外側に彼らに聞こえない叫びがさまよっている形なのです。

その小じんまりとした協調の外側を囲むように広がっている叫びは、ムンクやコーデリアには聞こえていたのでありまして、聞こえるがゆえに人々と異なった行動をとる要因になっているのであります。

おそらく姉ゴネリルやリーガンのように、コーデリアも適当に振る舞っておけばよかったと思う方がおられるでしょう。しかしそれはコーデリアを見つめるダッコチャンのようなものでしょう。(土居健郎 「表と裏」1985 は、姉たちを喜ばせるために書かれている)




むしろ姉たちと同じように振る舞った場合、父リア王を含めた自分の周辺社会の行く末を想像していたコーデリアと考えるべきなのです。聞き覚えのある昔話や噂話などを思い起こして、現状の行く末を予感したり、過去の人々の叫びが聞こえてしまうのです。

と言うのも、シェークスピアは単純なフランス王に拾われるシンデレラストーリーで終わらせなかったのが、その証拠です。そもそもコーデリアはアンデルセンの 「裸の王様」1837 のように、父リア王が裸の王様状態であることを知っていました。ゴネリルとリーガンはダッコチャンのごとく裸の王様にたいするあやつり加減に自己優位を狙っていたのにたいして、コーデリアはリア王の現実認識を高めさせるための試行錯誤に向いていたのであります。

ただショーペンハウアーの 「意志と表象としての世界」第五十一節 では区別されていませんが、コーデリアは 「ハムレット」 のオフィーリアや 「オセロ」 のデズデモーナとはちがっています。コーデリアの場合はマキャベリズムの存在に気付いてゆくのであり、【社会観への意志】にいたっているのです。言わばギリシャのプロメテウスや新約聖書のイエスキリストと同じ系列に属する、女性版となったイギリスのコーデリアです。



さて日本においては、かぐや姫にコーデリアと類似した【社会観への意志】が感じられます。もし逆にコーデリアをたとえておくならば、それは 「月へ帰れないかぐや姫」 なのです。

しかし何故 「竹取物語」 では、かぐや姫を月へ帰らせたのでしょうか?

かぐや姫は取り囲む貴族たちの裸の君臨もしくはダッコチャン的ぶら下がりについて知っていて、なおかつ民衆たちのムンクの叫びが聞こえていました。しかしコーデリアやイエスキリストのような殉死は日本文化では英雄的自己陶酔の結果と判断されてしまうため、かぐや姫が改革の戦に加わることは避けられなければならず、かと言ってそうした貴族社会のままで君臨することさえも許されなかったのです。

ただかぐや姫の使命は、貴族たちに自ら不老不死を拒んだことを自覚させることにあったのです。裸の君臨のまま不老不死を獲得することが人生の目的ではなく、ムンクの叫びを聞く社会的使命を貴族の意識に刻ませたのです。それはかわいい子供を社会に出す親心、あるいはアニメ 「一休さん」 の母上様に近い気持ちと言えます。そうです、かぐや姫とは修行僧の使命を貴族へ示した一休さんの母上様、もしくはキリストの使命を貴族へ発令したマリアの役目を担っていたのであります。



しかし 「綺麗事では済まない」 の日本文化では、ムンクが聞いていた叫びの苦しく波打つ模様に、コーデリア的な悲劇を見ることはないようです。日本文化では、苦しく波打つ模様に個人内の苦境的錯乱もしくは漠然とした社会不安を感じるのであり、むしろ意志的な悲劇は穏やかな月見の十五夜に象徴され、ヒエラルヒー構造の団子となって眺められるのです。まるでウサギのように人並みの役割を果たせない者が、自ら火の中に入り殉死したものと憐れみながら。

その点で必殺仕事人の中村主水は、日本的な団子中心主義を知りつつムンクの理解者でもありました。日頃の日常生活では小馬鹿にされながらも、少数のムンクの叫びが聞こえる仲間と裏稼業。どちらの世界においても、自らの危険を冒すまでは首を突っ込まないのでありました。



さてコーデリアにはムンクの叫びが聞こえていて、【社会観への意志】が働いていました。それは他のリア王や姉ゴネリルやリーガンには聞こえていない叫びと求められていない社会観でもありまして、たとえればヘーゲル主義リア王の盲点を見ていたマルクス主義のコーデリアと言える状況でした。

実際ヘーゲル主義のシュトラウス、バウアー、フォイエルバッハらの階級分化の叫びを聞かないまま励んでいる、囲われた学会における目標精神への自己鍛錬宣伝にたいし、新たな経済的社会の説明を進め始めた点でコーデリアの視座にあったマルクス・エンゲルスでありました。また空想的社会主義と名ざしたサン・シモン、フーリエ、オーウェンらにたいして、彼らは叫びを聞いていましたが理性と正義への計画が中心となり、肝心の社会現実の実態調査が不足していた点を指摘した晩年のエンゲルスです。



時過ぎてアメリカから日本にも伝わった 「シンデレラ・コンプレックス」1982 なる流行語がありました。しかし 「リア王」 を書いたシェークスピアからして見れば、シンデレラストーリーなどはほんの物語が始まる序の口でしかありませんでした。つまり 「シンデレラ・コンプレックス」 とは、かなり限られた部分だけに焦点をあてたに限り、ただ自立の有無を基本尺度として強調し始めたのであります。

「シンデレラ・コンプレックス」 という言葉の普及が意味していたのは、シンデレラストーリーを自分の人生に重ね合わせて考える人々とそれを心理学的に解釈する人々の発生でありまして、共にムンクの叫びを聞くコーデリアについては遠く離れた状態へと向かったのです。そればかりかシンデレラ・コンプレックスの解説方式は自らの他者評論を優位に保つ道具と見なされたのか、コーデリア的人間についても悲劇の主人公への自己陶酔、あるいは関係ない他者への感情一般化と説明し始めたのです。

要するに 「シンデレラ・コンプレックス」 とは、周囲の叫びを聞かない物語からの人生思索が世代的に発生した中、同様に周囲の叫びを聞かない心理学解説が台頭したことを意味します。そして映画 「フラッシュダンス」1983 の審査員たちとは匿名化したリア王たちの組織化を意味し、それに従属しなければならない独立自尊への時代的移行となったのです。



独立自尊の基準尺度は、ムンクの叫びを聞きません。いや、そうした周辺に広がっている叫びは独立自尊の欠如として笑われるようになり、ムンクの叫び自体が人々の独立自尊から外れてしまった主人公自身が発する叫びと解釈される要因だったのです。



こうした1980年代以降、現在にいたるまでの解釈闘争には、ムンクが聞いていた叫びについて 「個人的幻想か?社会的現実か?」 の問題が目立たない形で働いてきたのです。ですから大半の心理学者や精神科医たちは、それを幻想として宣伝することにより、自らの仕事を広げてきたと言ってよいでしょう。



別に私たちがはじめてという訳ではありません。最大の志 (ムンクの叫びを聞いた社会認識) を抱きながら最悪の事態を招いた事例は、決して珍しくはないのです。

( 「リア王」 第五幕 第三場)



確かにコーデリアには、ムンクの叫びが聞こえていたと思います。

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  1. 2012/01/19(木) 00:26:19|
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