思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

形態論的思考 ~尺度性二分思考の改革~




「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独の中で自分自身に耐えられないからである。」

(「幸福について」 新潮文庫 第五章九)



さっそくですが、再びショーペンハウアーさんに登場してもらいました。ショーペンハウアーの場合、一般的に社交的な人々が自らの社交における煩わしさを感じながら孤独な人々について 「社交からの逃避」 と考える傾向にあることを踏まえ、新たに【社交は孤独からの逃避】と【孤独は社交からの逃避】の両者に逃避性を見る心理学へと達した感じであります。

実際のところ、社交的な人々が孤独を選ばない要因は何なのでしょうか?

それは自らが社交的な人々と一緒になってくだしていた 「孤独な人々を社交からの逃避」 という人物判断を、孤独の側へ移ることによって今度は受ける側になることを恐れるからです。つまり社交とは人物判断を受ける恐怖を避けるための 「孤独からの逃避」 と言うことが可能なのです。

逆に言えば、孤独を選ぶ人々とは訳もわからず 「孤独な人々を社交からの逃避」 というみんなと一緒になって下す判断にたいして、何かイジメの構造と似たものを感じてしまい、それに協力できなくなったりもする訳です。

ですから、一部の人々にたいしてのみ【逃避】の概念を当てはめる言動とは、遠まわしに自らの【成長】を自画自賛しているのと等しいのであり、[逃避・成長] という自作の尺度を基準に他者を卑下しながら自らを褒めているとたとえられるでしょう。

なるほど彼らにしても、周囲からの [逃避・成長] の尺度で図られながら社交的になろうと努力してきたことではありましょう。しかし彼らは [逃避・成長] の尺度にたいする批判吟味からは逃避してきたと言わねばならないのです。

たとえば戦時中の 「非国民」 という尺度を考えていただければ、わかりやすくなるかも知れません。人々は 「非国民」 という蔑称を恐れながら協力してきたと同時に、「非国民」 という尺度と闘うことからは逃避してきたのです。

(余談になりますが、敗戦となった後に行なわれていることには、仲間がたくさんいる上での 「二度と戦争を繰り返してはならない」 という闘いでありまして、そこでは戦時中に 「非国民」 と言われながら闘ってきた少数派のことを考えないばかりか、彼らの出番さえ奪う形で今の自分の反戦活動に励んでいるのであります。)





いずれにせよ【逃避】の部分的使用には、現実社会についての認識はほとんどなされてはいないのでありまして、ただ自らの自画自賛を秘めた自己正当化効果を期待しているに過ぎないものです。もっと現実社会の認識のために用いたいのであるならば、ショーペンハウアーを見習って【社交は孤独からの逃避】と【孤独は社交からの逃避】の両者に逃避性を見ながら、逃避の形態論に仕上げる必要があったのです。

たとえばA(社交派)とB(孤独派)として考えれば、AとBの分類するための個別化として【逃避】を当てはめるのではなく、人間全般の特質に【逃避】を当てはめ、その形態の違いを【社交からの逃避】と【孤独からの逃避】によって解釈する必要性があると言えるでしょう。

そうした【形態論的思考】とは、古くはフランスのパスカルが示した名誉欲の見解に伺えます。

「うぬぼれの心は人間の内に深く根ざしていて、兵士も従卒も料理人も人足も自分のことも誇る。そうして自分を賞賛してくれる人々を得ようとする。哲学者でさえそれを望む。名誉を貶して書く人々だとて、巧みに書いたという名誉を得ようと思う。こんなことを書く私だとておそらくそんな希望を持っているのだろう。そうして多分これを読むであろう人々も……」
(「パンセ上巻」 新潮文庫 一五〇より)

ここでは名誉欲の人間の普遍性が正しいかどうかは、全く問題ではありません。一部の人々のみに名誉欲を命名判断をさせる思考(尺度性二分思考)にたいして、パスカルには自らも含めた普遍的な名誉欲を前提とながら様々な形態を示していく思考(形態論的思考)が働いていた点が確認できるわけなのです。





では【逃避】についての尺度性二分思考と形態論的思考を、アリストテレスの形而上学に習い [形相・質料] と関連づけておきましょう。

[形相・質料] に並行して対応するものは、おおよそ [差異・同一] もしくは [形状・材質] です。たとえるならば、同一の銅という材料(質料)で、様々な異なった銅像なり器あるいは管楽器など(形相)が作られている(作用)ことを意味します。

ですから一般的に用いられている尺度性二分思考による部分的な人々への【逃避】の命名とは、差異を示す "特殊な形相" へ当てはめた結果であり、他方のショーペンハウアーの形態論的思考による双方への【逃避】の適用は、人間の "普遍的な質料" へ当てはめた形となります。





そうなりますと、フロムの 「自由からの逃走」 には充分に形態論的思考が働いていないことが明らかになるでしょう。

フロムの言うように、第二次世界大戦における日本、イタリア、ドイツの全体主義は、個々人が自由から団結へと逃走した結果だったと認めましょう。しかし 「個々人の自由の実現」 とは実際に現実化していない理想像にすぎず、もっと言えば、人々の自由度の測定評価人として自らの役割を忍び込ませる書になっているのです。

つまり 「自由からの逃走」 にたいしては、自由の側にも 「団結からの逃走」 なり 「組織らの逃走」 なり 「伝統からの逃走」 などを対置させて解釈しなけば、形態論的思考による現実認識も進まないでしょう。

実際のところ 「自由からの逃走」 Escape from Freedom の表題にたいして、伝統を基本理念とするイギリスでは 「自由にたいする恐怖」 The Fear of Freedom と改題されたのでした。ただ一方的な 「自由からの逃走」 の表現では、基本理念の伝統を守ること自体がまるで自由から逃走しているかのように感じられてしまうのであり、そのため新たな伝統を守る根拠にもなっている自由の危険性を示す 「自由にたいする恐怖」 という表現に改題されたと見なせるのです。



おおよそ現代心理学の大半は尺度性二分思考によって説明されているものばかりであり、言わば人物評価の尺度を社会へ暗示させているに過ぎません。しかも各所から好き勝手に様々な尺度が発信されていますから、鬱状態な人々が増えるのも当然です。

そんな訳でいつのことになるかわかりませんが、やがては心理学の分野に形態論的思考の必要が求められなければなりませんし、今日の尺度性二分思考の社会的影響についても公表されなければならなくなる時がいずれは来ざるおえないでしょう。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2012/01/06(金) 13:07:44|
  2. 心理学の社会学
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/387-87fd72f5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。