思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

喧騒なる組織記号と静寂 ~記号生産の社会学~




昨日の日本テレビ 「NEWS ZERO」 を見たところ、どうも秋元康はK-POPの世界進出をライバルに据え、日本の世界進出を目指している感じである。

そこで日韓両者の生産意識を見てみると、複数タレントによるユニットである点で何か共通しているように思えるのだが、いかがであろうか?

おそらくはユニット記号もしくは組織記号が計画されている点で両国のコンテンツに一致があり、20世紀後半よりメディア体制が整った世界情勢の中、大衆における個人単位の組織従属や協力目標が求められている地域に需要がある指針サンプルとなっている感がする。

日韓の共通点と言えば、戦後の学歴社会と資本主義である。ある意味で自己努力と組織作りを基調とした文化へと進んだ二国なのだ。その生産形態は様々な職業分業の中の一つに位置する【組織化計画の裏方職人】にあって、アメリカのマイケル・ジャクソンやレディ・ガガが率いるような【ユニット内からの人脈組織】が低いのである。

つまり【連携意識による組織】ではなく、【用意された組織での協力意識】が求められている文化地域と連動した台頭と言えよう。

裏方職人たちは、人々を個人主義に留まらせたままの第一歩を提供するだけで、裏方職人なしで相互連携するための知識共用はしない。



思えば1998年・宇多田ヒカルと1999年・倉木麻衣の若手ソロデビューが続いたが、彼女らのバックである裏方との人脈組織的な交渉も、十代という年齢にを割り引くことなく、かなりなされていた部類であった。

一方でモーニング娘という複数ユニット体制も 「LOVEマシーン」1999 から活躍し始めた時期であり、組織内における各個性の輝きが裏方より発案計画されている。

1990年代に流行った小室サウンドも、その二派分裂の状況で影が薄れて行ったと思われる。

人脈組織できる若手ソロシンガーが求められてきたため、楽曲提供をこなすソロ個性では物足りなくなったのであり、また楽曲提供をこなす場合には年少までを含めた組織ユニット内の個性でなければ受けなくなったからである。



おおよそAKB48のコンセプトは【批判なき前向きな集客自己努力】の主張で、マイナーなローカル・サブカルからのメジャー・マジョリティ化にいたった物語なのだ。2004年の 「電車男」 やパヒュームの秋葉ローカル活動にヒントを得て立ち上げられたものと思われるが、 「会いたかった・会いたかった・会いたかった・Yes!」 や 「I want you.I need you.I love you.」 のフレーズは、まさに批判なき前向きな集客自己努力の賜物である。

逆に言えば、それは 「批判とは、努力しない者たちの不平だよ」 と暗示させ、社会観察とは自己努力を実らせるための隠し持ち知識財産であることを意味させる形となっている。裏方さんたちがその知識財産である社会観察を使ってプロデュースしてくださったと同時に、自らに向けられる批判については努力なきものの戯言と聞き流す組織体制なのである。

ともかく韓国・K-POPや日本・秋元プロデュース (まずはインドネシア?) の海外進出は、それぞれ各地域の自国音楽業界も刺激するだろうから、その受け入れ状況がどのような変化を生む出すかを含めて、世界的な組織記号の反応分布図を知る上での面白い参考資料になってくれるだろう。





一方最近では、欧米において由紀さおりが注目を浴びているらしい。

ちまたの噂よれば 「夜明けのスキャット」 とサイモン&ガーファンクルの 「サウンド・オブ・サイレンス」 とが似てると言われているが、実際のところ、その影響を受けたか借用したかの結果ではあったろう。時代的に言って、ボードリヤールの【記号が氾濫した消費者社会】となった社会情勢の中、両曲ともにその騒がしさの中に静けさを聞いていたのである。



思えば今年の東北大震災後の非常事態に、「今、自分が出来ること」 を合い言葉を掛け合い復興へと動き出した日本であった。

それは世界でも報道されたことである。

当日の騒ぎ立てない日本人の静けさに世界は驚き、その当たり前に驚いた世界にたいして驚いたくらいの日本である。

ひょっとしたら、欧米各国は不思議な災害時の日本人の静けさの記憶から、由紀さおりにその起源を見つけたのかも知れない。

「夜明けのスキャット」 とは、日常生活の喧騒に誰もが生きるのに忙しい【濁音化】を見ながら、その中に誰もが静かな【清音】を求めていることを歌った、言わばポップ調な日本の子守歌だったのである。

決して濁音を見ない清音だったのではない。子守歌とは、濁音の状況を見ながら寝かしつける清音である。


しずけさや 岩に染み入る 蝉の声

アメリカの 「サウンド・オブ・サイレンス」 は個々人から見る静けさであったが、日本の 「夜明けのスキャット」 はみんなで見る静けさであった。それも古くから無生物 「ある」 と生物 「いる」 の区別に慣らされてきた日本語の結果かも知れない。

しかし今や日本では 「今、自分が出来ること」 と言う記号発信で静けさを隠し合うかのように忙しく、地震報道を目にした欧米が日本の静けさを見つけたのだ。

政治家も国民も、そして各メディアたちも、静けさを隠す小手先記号発信ばかりに一生懸命になっていないで、いい加減、静けさを聞き始めなさい。

バルトやボードリヤールなど構造主義は、確かに濁音の記号氾濫を考察し始めたが、しかし清音の静けさを忘れている。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2011/12/15(木) 23:46:46|
  2. 現代思想
  3. | トラックバック:0

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/384-f53e2bd6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。