思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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日本における旧約聖書 ~ヨセフを忘れたエジプト~

現代日本でも、少しは旧約聖書の内容について知られている。

特にアダムとイヴ、ノアの方舟などは有名なもので。もう少し詳しい方々ですと、カインとアベル、、エデンの東、バベルの塔なんかも知っていると言った感じです。

しかも上記の五ついずれもが、最初の 「創世記」 の前半部分に限られているのであって、まさにそこに現代日本における旧約聖書についてのイメージが象徴されている感じでもあります。



さて旧約聖書とは簡単に言って、ユダヤ教の聖典です。それに新約聖書を含めたのがキリスト教であり、ユダヤ教の場合は新約聖書を含めていないと言った感じです。

ですから日本における旧約聖書のイメージ形成は、明治維新後の西欧文化と合わさったキリスト教の流入によって幾らか勢いがついたと言ってよいでしょう。



そこで日本文化から見た旧約聖書の第一印象を考えてみますと、それは 「主」 と連呼される唯一神の強調です。

遡ること日本にキリスト教が入って来た頃について考えてみますと、聖書を参考にした一部の人々が、その 「神」 について語り始めたのも想像に難しくありません。

しかし世の中に格差があったり指導者のやり方に不満が生じるのは世の常ですから、そんな状況下にキリスト教が入って来ますと、キリスト教を基軸とした部分的な団結勢力が生じたりする可能性も生じるものです。古くは天草四郎が、その日本における代表例です。

西洋人が日本漂流してからと言うもの、異文化にたいそう驚いた日本人であって、特に上流階級の中で優遇と交流がなされたことでしょう。それが中流もしくは下流階級へキリスト教が広まり上流階級にたいする改革理念として共有されるようにもなったのです。そうなると今度は、現行の上流階級側が抑え込みを計り、禁教や鎖国にいたった訳です。

では明治維新からのキリスト教は、どうだったのでしょうか?

まず1873年に外国からの圧力もあって禁教政策が廃止されようです。そして天草四郎のような国内の政治勢力の分断を危惧していたのかは知りませんが、内村鑑三の無教会主義が現れています。そのため一神教の 「神」 を強調することのない聖書解釈が知識階級でも幾分進められた感じです。

そして現在の日本では、特別にキリスト教の存在自体に拒絶反応を示すことはありません。キリスト教会側も日本文化における 「神」 の感じ方もわかっていますし、世界的な宗教的立場に則っているからです。むしろ新興宗教のような勧誘の方が警戒されるのであって、日常生活において出しゃばった内容説明がなければ、キリスト教信者でも避けられることはない日本です。



さて話を旧約聖書に戻しましょう。

つまり 「神」 の強い主張がなければ、それなりの許容がなされるキリスト教であり、そして旧約聖書です。ですからアダムとイブ、カインとアベル、エデンの東、ノアの方舟、バベルの塔などが広まったのも、映画や文化などで浸透したために、「神」 を軽く考えながら気楽に話題にできるようになった事柄に相当する訳です。

日本において抵抗感なく広まった事柄が、何故 「創世記」 の前半 (11章まで) に集中しているのか?

それはヤベテの子孫、ハムの子孫、セムの子孫と長々とその系統が説明され、いきなりセム系統のアブラムの時代へ話が飛んで物語性が中断されているからでしょう。また旧約聖書では現在の多様なる文化集団に【先祖代々の系統を見る世界観】があるため、早くも【セムとハムの分類意識】を指し示した 「創世記」 10章であり、わかりやすい局所的物語性が薄くなっているからと言えます。



さて問題を今日の世界情勢につなげよう。

遡ること日本では、1982年に 「シンデレラ・コンプレックス」 という本がベストセラーになったと言います。それはアメリカのコレット・ダウリングが提唱したものを翻訳したもので、キリスト教文化圏で読まれたものです。そして一種の 「待っていても幸せはこない。幸せは自分で掴むもの。」 みたいな雰囲気を作り出すことになりました。

ここでは幸せを待つか掴むかの是非は問題ではありません。シンデレラ物語の【不遇からの成功】について、旧約聖書と並行的に吟味されたかどうかにあります。

と言うのは、すでに旧約聖書では 「創世記」 でシンデレラと等しい【不遇からの成功】という物語性を含んでいたからである。

それはヤコブの子ヨセフのことで、「創世記」 37章から最終50章までである。ヨセフは自らの夢を語った (37章6節) ことにより兄弟から憎まれ、エジプトへ売られた。そしてヨセフはエジプトで成功した (41章41節) のだ。

なるほど 「シンデレラ・コンプレックス」 による人物解説は、幸せ待ちの人々が世界を見ようとしていない状況を認識したかも知れない。しかしその人物解説は、成功後もしくは幸せ後の社会観について示さなかったのだ。旧約聖書の場合は、ヨセフが亡くなり、彼が忘れ去られた後々の世代まで物語が続いていくのである。

そうなのだ。「シンデレラ・コンプレックス」 という解説用語とは、ただ個人個人を評価することで、自らの人物評論家の地位を確保しただけであって、その後の全体的な社会の動きを見ようとしなかったのである。いや、その自らの人物評論家の地位を維持させるために、社会の動きを見させないように、人物評価によって個人個人が争うよう心理学理論を提供し勉強させようとしたのである。

全く敬虔なるキリスト教徒たちも、聖なる精神の獲得に一生懸命で自らの精進に忙しかったのだろうか?言いやすいお得意さん信者ばかりに小じんまりとした説教をして仕事になっていたから、間抜けな心理学理論が新たに浸透する状況を監視できず、現在のような世界情勢になってしまったのである。

キリスト教徒たちは、すぐにヨセフの成功物語も持ち出して、成功哲学には成功した後の全体的社会動向が示されていないばかりか、それを隠しながら人々を争わせ、そして自己君臨を維持するための【ヨセフを忘れたエジプト】である点を訴えるべきだったのである。

すなわちヨセフを忘れたエジプトとは、「出エジプト記」 1章8-16節 のことである。

ただ旧約聖書では、ヨセフを忘れただけのエジプトでしたが、しかし現代のヨセフを利用するエジプトである。

つまりヨセフになれないシンデレラの欠点を解説し、その解説によってエジプト政権を維持させるのである。ヘブライ人の台頭を恐れるため男の子ならば殺すよう計画されていた旧約聖書の叙述のように、現代のシンデレラ解説のような人物評価発信地も、その発信地利権を見抜く勢力を早めに打ち砕いておくよう、成功の必須条件を振りまいているのである。

たとえ解釈の偏狭さを認めたとしても、旧約聖書が対象としていた社会的広がりと比べれば、シンデレラ解説の個人品定め性のその広がりのなさは、あきれるほど一目瞭然。それどころか、その解説が起こしている社会的影響の広がりが見えてしまう旧約聖書の立場なのだ。

日本で知られている旧約聖書は、ほんの 「創世記」 の前半部分のみで、ヨセフ成功物語の周辺に広がっている領域にさえいたっていないのだ。

いや現代のキリスト教文化圏も、間抜けな心理学の狭き関心領域にたいして監視が出来なかったので、もはや日本の状況とさほど変わりがないかも知れない。

アメリカの映画監督も、そんな現代の広がりなき関心の世界情勢を風刺する意味で、【ヨセフを忘れたエジプト】というタイトルの映画でも早期に制作するのが筋だろう。

【エデンの東】が1955年だから、今日まで一体何をしてきた映画界なのか、私にはよくわからない。まあ、ウォール街から始まった世界的デモの発生について深く観察している旧約聖書であることは、よくわかるのだが……



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