思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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「エレミヤ書」 ~旧約聖書の国家観~




南ユダ王国はバビロンによって滅亡しました(「列王紀下」 25章7節 「歴代志下」 36章11-20節)。しかしその滅亡の理由について、旧約聖書ではどのように解釈されていたのでしょうか?今日にいたるユダヤ・パレスチナ問題を考えようとする際、ユダヤ側の国家観を理解するための一つの指針となりうる部分に相当するでしょう。


まずヨシア王の治世に最大限の賞賛 (「列王紀下」 23章25節 「歴代志下」 35章18節) が記されていることからして、その後のエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤへと衰退していった南ユダ王国と考えられています。

その衰退は最大限に達したヨシア王がいきなりエジプトとの戦いで倒れてしまうことに始まり、国の民によって次期エホアハズ王が立てられる (「列王紀下」 23章30節 「歴代志下」 36章1節) も、戦勝エジプト王によりエホヤキム王が立てられ (「列王紀下」 23章34節 「歴代志下」 36章4節)、貢国の立場となりました。

しかし何故、最大限の賞賛を記したヨシア王が、いきなりエジプトに倒されてしまったのか? 「列王紀下」 (23章26節、24章3節) によれば、それはマナセ (ヨシアの二代前) にたいする神の怒りと解釈されています。

では何故、マナセの罪をヨシアが受けなければならなかったのか?おそらくそれは、マナセの父ヒゼキヤの個人主義というか自世代主義的な理念 (「列王紀下」 20章19節) にたいする国家的戒めを意味するかのようです。ヨシア死後にあたるエホアハズ王にしても自世代主義的理念の残余 (「エレミヤ書」 22章14節) が認められ、そこに南ユダ王国滅亡の運命を重ねていたと言えます。

そんなエホアハズを王として立てたのは南ユダ王国の民でしたから、もはや国民の王政監視も充分に働いていない主従分裂した状態と言えますし、次のエジプト王に立てられたエホヤキム王にしても、エジプトに守って貰う貢のための増税をくだすしかない状態だったのでしょう。

そのエジプト王によって立てられたエホヤキム王の時期には、別のバビロンが侵攻してきて、エジプトは退きました。やがてエホヤキムがバビロンに抗争するも立ちゆかず、次期エホヤキン王へと移っています。

そしてエホヤキンの時にバビロンが攻め囲み、降伏した彼ら一族はバビロンへ連れて行かれ、当の南ユダ王国では最後の王となるゼデキヤがバビロン王によって立てられています。(「列王紀下」 24章17節)



このように旧約聖書では、ヨシア治世で頂点に達した南ユダ王国も、王を始めとして自世代安楽が優先されせたため、神の制裁がくだったと、そのように解釈されている感じであります。

その神の制裁については、バビロン王国を通したものと積極的に解釈されている旧約聖書でして、特に 「エレミヤ書」 では顕著に表わされています。(中でも27章8節)

ですからバビロン捕因とは、ユダヤ教にとっては神による制裁もしくは試練なのです。一般的にユダヤ教の特質として選民思想が宣伝されていますが、バビロンを神による裁き手と見ている訳ですから、必ずしも正しくありません。むしろ現代社会にも認められる自文化中心的な特質であって、ユダヤ教の 「神」 の連呼に選民性を見た結果に過ぎません。

まあ、イスラエルの神を普遍化しようとする雰囲気にあっただけのユダヤ教であって、今日のグローバル化理念とたいして変わったことではありません。もしそれを選民思想と言うならば、先頭に立ってグローバル化を説いている方々にも、表立っては言わないのでわかりずらいのですが、 「選ばれた私たちにグローバル化の権限がある」 という選民思想が隠れているのです。

話がズレてしまいましたが、旧約聖書ではバビロン王国に味方した神とされ、また同時にバビロン王国にたいするユダヤ側のいくつかの反応についてが分類解釈されているのです。

「エレミヤ書」 の最終部52章31-34節および 「列王紀下」 の最終部25章27-30節では、エホヤキンのバビロンにおける優遇が記されているのも、それはエホヤキンがバビロンに降伏した (「列王紀下」 24章12節) からだと思われます。

一方、エホヤキムとゼデキヤはバビロンに背いた (列下 24章1節、20節) と記され、特に最後のゼデキヤ王の場合はバビロンに背いたゆえの滅亡を強調している感じです。(「列下」 25章7節、「エレミヤ」 39章6-7節、52章10-11節)



旧約聖書の国家観とは、簡単に言ってしまえば、「神に従えなければ、国家を保つな」 である。つまり国民や民族を守るのが国家ではなく、神の目標を実現するのが国家なのだ。もともとのユダヤ王国の樹立も、外敵から自民族を守ると言うよりは、内治裁き手のため(「サムエル記上」 8章5節)であった。
明らかに旧約聖書とマキャベリズムの国家観とは、異なっている。マキャベリズムは国家を守るための外敵にたいする策略と同時に、内治のための策略を説くが、旧約聖書は両者の共時性的発生を見て国家の滅亡に神を解釈しているのです。

ユダヤ教徒とは、そうした国家観を共有して様々の他国家の中で放浪していたと言ってよい。その国家の中でのしがらみに縛られないユダヤ人的な商業や高利貸しの繁栄が、ナチス・ドイツによるホロコーストの対象となったのだ。

詳しい専門知識はわかりませんが、1948年のシオニズム運動の延長で建てられたイスラエル国とは、過去のユダヤ人迫害勢力に 「出エジプト記」 を重ね、「サムエル記」 に建国を思っていたようなものでしょう。

しかしユダヤ人もしくはユダヤ教徒は、みながみなシオニズムの考え方にはありません。逆にナトレイ・カルタという、ホロコーストをシオニストの罪に向けられた神の制裁と考える人たちもいるらしく、バビロン捕因以来から神によって国家樹立を拒み続けてられているユダヤ人なのだと解釈されているようです。

確かに旧約聖書に潜む国家観にたいして、時代を経るに従い変容さたり多様に解釈されて現在にいたっている訳ですから、仕方がないと言えば仕方がないことでしょう。



しかし別に旧約聖書やユダヤ教に限ったことではありません。

現代のあらゆる人々も、同様に周囲の知識への支持や反対によって個人的知識を形成しながら各人がコミュニティー参加をし、かつどこかのコミュニティーに参加をするためにいずれかの知識を選択しているのであります。

ただ旧約聖書やユダヤ教についての現状を、自身が属する文化圏内で解釈し、その解説専門家に居座るのでなく、自身が居座っている文化圏にも同様の仕組みが働いていることにも気付かなければならないのです。

別に旧約聖書に真実が書かれている訳ではなく、むしろ人それぞれの知識形成や人それぞれのコミュニティー従属化を知らせるために、神が一部の人々によって旧約聖書を書かせたと言った方が、より真実なのです。


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  1. 2011/10/20(木) 23:49:27|
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