思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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自己余裕派の 「し」、社会監視派の 「ち」

フジテレビ騒動について「嫌なら見るな」 ぽい感じの意見を述べた田村淳、岡村隆史、北野武には共通点がある。それは 「あつシ」、「たかシ」、「たけシ」 と、三者ともに 「シ」 が付くのである。かつてダウンタウンの松本人志が、売れっ子芸人には 「シ」 が付くと言う説を唱えたことがあるらしいが、あながち間違いではないと私も思う次第である。

ところで 「シ」 とはローマ字表記で shi であって si ではない。si とは 「スィ」 であって 「シ」 ではないのだ。つまり日本語のサ行 「サシスセソ」 はローマ字の s とは完全に一致するものではなく、ローマ字表記を比べれば特殊な音に相当する 「シ」 なのだ。

さて一方の 「嫌なら見るな」 的意見にたいして苦言を発したのは作家・深水黎一郎であり、彼の 「れいいチろう」 には 「チ」 がある。実を言うと、「チ」 とは 「シ」 と同じく、ローマ字表記からズレたイ段の音なのだ。si が 「スィ」 であるように、ti は 「ティ」 とズレを見せているのである。



「スィ」 や 「ティ」 を避けた日本語の 「シ」 と 「チ」 とは、【社会的場へ自己参加させる即時性】の象徴と重なる。と言うのは、「ス-ィ」 や 「テ-ィ」 のような二段階発声と感じられる日本語体系であり、ローマ字表記の基準とすれば、「シ」 や 「チ」 に【二段階発声を避けた即時性】がイメージされているのである。

二段階発声にイメージされる社会的自己参加とは、空気読みの計算から社会的自己投射への時間的移行である。つまり二段階発声には空気読みを計算している個人の努力状況が暗示され、子供が大人を真似ようと努力しているような可愛らしさがイメージされるのである。

「シ」 には、おそらく【空気読みを隠し持った社会対応】もしくは【華麗なる余裕ある自己工夫】が暗示されており、フランス系の 「シャシュショ」 と重なるものである。フランス語の ch 音は 「シャシュショ」 であり英語の 「チャチュチョ」 を避けているのである。英語で言う 「チャンス」 はフランス語では 「シャーンス」 であり、英語で言う 「チャンピオン」 はフランス語で 「シャンピオン」 なのだ。

フランス語では明らかに 「チャチュチョ」 の力みがある音を避け、かわす感じの 「シャシュショ」 に偏っているのであって、日本語の 「シ」 はフランス語の雰囲気と類似している。(英語では sh 音に 「シャシュショ」 を準備している)そして一方の日本語の 「チ」 は、「チャチュチョ」 を準備している英語圏のイギリスの雰囲気にあるとしておこう。



イギリスではベンサムやミルの功利主義思想があったことからして利益追求の意識が強い。しかし個々人が利益追求に力んでいるイギリスと考えてはいけない。むしろ各人が利益追求をしている社会状況を見ている力みなのだ。つまり 力みがある 「チ」 とは、各人が利益追求を行っている【社会的な場の監視意識】であって、【個人主義的な自己利益獲得】のためだけの力みなのではない。

ところが日本の場合は、イギリスのように利益追求の社会的場の監視意識が共有されていないため、「チ」 の力みについて、個人主義的な自己利益追求の結果と解釈する雰囲気が強いのだ。たとえば1999年の 「サッ【チー】・ミッ【チー】騒動」 にある 「チ」 についても、おおよそ大衆的解釈において双方に力み具合を感じられるものであったと思われる。また今回のフジテレビ騒動で言えば、サッチー派のフジテレビとミッチー派の抗議デモ勢力と似た雰囲気にあると言ってよい。

そうした力み感がある 「チ」 たいして、逆に余裕を示すような 「シ」 が自身の名に付くと、「チ」 のような力みをかわす自己工夫の才を自己イメージとして獲得でき、かつ周りからもそうした人物として認められやすくなるのである。もし 「シ」 のような自己イメージや他者了解が得られないと仮定するならば、自分だけが上手に世の中を渡っていることの狡さについて罪悪感を感じやすくなると考えられるのである。

松本人志の売れっ子芸人の名に 「シ」 が付く説とは、つまり80年代中盤以降の新たな時代における芸人に限ったものであろう。実際のところ、それ以前のドリフターズのメンバーを見れば、「いかりやチょうすけ」、「かとうチゃ」、「あらいチゅう」 であり、同時期の大御所も 「はぎもときんいチ」 と 「チ」 の活躍が目立っていたのである。

なるほど、ドリフターズは1974年に 「あらいチゅう」 の脱退から 「シむらけん」 へ移行したのが時代の流れであって、1985年の萩本欽一の休養のための一斉レギュラー打ち切りや 「8時だよ全員集合」 の打ち切りが、まさに 「チ」 から 「シ」 の決定的な転換期となっていたと言える。またもともとの意図とは異なったクサい芝居で人気を呼んだ 「スチュワーデス物語」83 の主人公 「まつもとチあき」 の 「チ」 には、力みにウッカリ性か感じられるようになった時代を象徴し、お笑い界における 「シ」 への移行時期に相当していたであろう。

そしてその転換の内実については、数かぞえの 「いチ、に、さん、シ」 に対応するかも知れない。「シ」 は、「1、2、3」 と三つの出方を見ながら自身の余裕ある自己工夫を出し、かつ上手にかわすのだ。比べること 「チ」 の場合は、それぞれが 「1」 と出て場を盛り上げることに力が注がれ、それぞれが力んでいる中で示される余裕かわしの立場が必要とされていなかった時期に適していたものである。



今回のフジテレビ騒動に 「嫌なら見るな」 のロンブー淳、岡村隆史、ビートたけしは、80年代以降の【自己工夫の余裕】を基準した努力主義もしくは才能主義にあるため、抗議勢力について 「何を力んでいるの?」 と思うに留まり、そこに【社会的監視】を見なていない。自身が時代的に有利に働いた 「シ」 の自己余裕派の位置を自覚できないために、他者の力みを【社会的監視】と見ることをせず、ただ自身の【華麗なる自己余裕】が欠如した人々として眺めているに過ぎないのだ。

彼らは表向きは 「シ」 を売り物にしているが、その裏には自己工夫として 「おチゃかし性」、「なんチゃって性」、「チゃっかり性」 という 「チ的財産」 を隠し持っているのである。だから深水黎いチ郎が、その 「チ」 をケチくさく自己工夫に留めていないで、社会的に公に共有化しようとしているだ。つまりフジテレビのサッチー的なゴリ押し性とは、自己工夫の自由を大前提としいるのであり、淳、隆史、武はそれを擁護したのであり、一方の深水黎一郎は抗議勢力に向けて 「反韓流」 でなく、「反隠し持ち自己工夫」もしくは 「反自己工夫による偏向」 を呼びかけた形なのである。



結論

まとめれば、松本人志が示した売れっ子芸人の名に 「シ」 が付く説とは、80年代中盤以降に限られた【隠し持ち自己工夫】の結果に過ぎず、それ以前には【社会的監視】の 「チ」 がお笑い界には働いていたのである。今日のフジテレビ騒動について言えば、そんな 「シ」 が付く森田一義、ビートたけし、明石家さんまというお笑いビッグ3を輩出したフジテレビが、強引に自らの【自己工夫】に頼り過ぎてそのまま進めてしまった結果であり、一方の抗議勢力に向けて提言した深水黎一郎には、偏向的なフジテレビの自己工夫に焦点を定めるよう、【社会的監視】の意義が示され始めているのである。

しかし困ったことに 「シ」 が付く大物芸人とは、自分に相当な監視意識があると思ってしまっているし、あるいは監視意識があるものを大多数の無知を利用して茶化しながら自分の余裕の箔付けに利用してしまうから恐れ入る。要するに、相当数の人々が自己余裕の達人に呆れ果て、社会的監視意識のある人物を支持するようになるまでは、優秀な総理大臣は現れないし、優秀な政治評論家も現れず、ただ自己工夫のメディアと専門家のお招きお呼ばれ体制が続くのである。



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