思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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池上彰論 ~報道解説と事件の関係、そして歴史~

今年の三月いっぱいで、テレビのレギュラー番組を自ら降板した池上彰。彼の解説は、従来にない詳しさで大変な人気を呼んだ訳だが、ただそれを彼の個性的才能として驚くに留めず、今後の若者のためにも池上氏の見どころや観点、あるいは考え方について私なりの解説を残したい。



いい質問でしたねぇ~

池上彰の 「いい質問でしたねぇ~」 とは、単なる番組進行に沿った的確な質問とか、教育には生徒を褒めてやる気を起こさせるといった意味だけではない。おそらく彼は、【自分の知識状態】とこれから【知りたい領域】との位置関係を意識した探求のための【問いかけ方法】の大切さを示唆していたと思われる。

たとえば数学などでは、出来るだけ覚えることを減らすような形で、様々な法則なるものの包括する全体的イメージみたいなものを習得するのが一つのコツとなっているのだが、そうした全体的イメージを習得するために自らがわからない箇所を追求する問いかけが出来る大切を求めているのである。たいてい数学が苦手な人々の場合は、その全体的イメージという領域が定まっていないために部分部分の問題に取り組む傾向にあり、はじめわかったと思った問題も他の問題に取り組んでいるうちに忘れるなり、あるいは新たに覚えた法則との関係が定かでないため混迷してしまうのである。

つまり混迷するのが数学の得手不得手の分岐点ではない。その混迷を全体的イメージにまとめるにはどうしたらいいかの質問順序が築けるか築けないかである。たいてい数学が不得手の人々は、みんなに遅れまいとして一つ一つの問題が解けるように頑張るのだが、そうではなく、数学を作った人々や数学教師などが抱いている全体的イメージを理解するように努める意識が必要なのである。

家庭教師や塾講師が経験することには、数学が得意な人々に難しい問題を教えることより、数学が苦手な人々に初歩的問題を教えることの方が難しいのだ。幾らか数学のコツを覚えた生徒にたいしては、わからない部分を質問してもらうようにすることによって比較的スムーズに話が進めれるのだが、しかし数学不得手な生徒の場合は、どこがわからないのかさえわからない状態なので骨を折るのである。そのわからない生徒の問題に取り組んでいくと、不思議なことに自分がわかっていたと思っていた事柄についても新たな発見をすることさえあるのだ。

おそらく池上氏も知識獲得のために必要なわからない領域にたいする質問の意義を全体的イメージのもとに理解しているであろう。数学などの理系知識に限らず、人文分野の文系知識にも、それなりの全体的イメージが働いているものなのである。また少年時代には、教師の説明内容にたいして疑問に思う箇所を随時意識していたであろうし、もっとわかりやすい説明の仕方があると見つめていたにちがいない。



報道解説と事実

池上氏の解説は、従来の報道解説と比べて随分とちがっていた。ある事件について解説するにも、色々とあるものだと我々は実感したのである。

しかし彼の方法とは、単純に一般人と事実を結びつけるための詳しい解説をした訳でない。彼は【報道解説の歴史】や【解説用語の歴史】について強く意識しているように思える。そして報道解説の歴史に解説用語についての不足を見ているのだろう。つまり従来の報道解説とは、一般人にリアルタイムの事実を解説するのに力を注ぎ、解説用語はそのための道具に過ぎなかったのだが、池上氏はその解説用語の歴史自体にも詳しい説明を施し始めた訳なのである。

彼は自身の知識獲得の歴史もしくは経緯について、どんな疑問を持って調べたか、またどんな全体的イメージを獲得してきたかの順序を記憶しているのである。たいていの博学者も自身の知識獲得の順序を記憶しているであろう。しかし池上氏の場合は、さらに知識獲得と全体的イメージの同時進行的な経過についても自覚しているのであり、解説するにあたり人々の知識獲得の状況と過去の自分を重ねながら工夫をしているのである。

池上氏が人々の目線に合わせて解説していると言うのは、必ずしも正しくない。従来の解説に比べれば、確かに人々の目線を考慮していると言えるのだが、そうではなく、自身の過去における知識獲得の主張なのである。それは従来のリアルタイム事件の社会学的な解説方法にたいする個人単位の知識獲得順序を重視した歴史学的な解説方法である。また従来は事件を解釈するように努力していたのにたいして、池上氏の方法には事件の解説による知識獲得領域の自覚が示されている。



知識獲得と歴史解釈

池上氏は現在の状況に関心を向けるだけではなく、歴史を学ぶ必要性を説いていたと、私は記憶している。実際のところ、現在の事件は過去があっての現在であるし、また時が経ることにより忘れ去られた過去の知恵もあるからだ。しかし池上氏自身が説いた歴史の必要性の他にも、彼の解説方法には彼自身があまり意識していなかった歴史観みたいなものが隠れているのである。

リアルタイムの事件が過去の出来事に基づいて生じることについては、たいていの人々にも漠然ながら理解出来る。そこで 「歴史」 という言葉からは、何となく 「過去からの連鎖」 とイメージされることとなる訳だが、しかしそこに【出来事】と【知識】という二つの歴史的並行関係を見ることが重要となる。

事件や出来事には歴史的連鎖があるが、事件報道の仕方や出来事解説の仕方にも歴史的連鎖の変化があるのだ。池上彰の 「ニュースはやがて歴史になる」 とは、その【出来事の歴史】と【知識の歴史】の並行関係を示唆と考えてよいだろう。つまり従来のニュース解説は人々へ出来事の歴史を伝えることのみに力を注いできたが、池上氏によって知識変化の歴史にも注意する必要性が示唆されるようになったと言ってよい。



フランス合理主義からドイツ歴史主義

従来のニュース解説とは、リアルタイムの社会的事件を解説しようとする【社会学的説明】であった。しかもそれは各個人が等しく見ることを狙った【実証的説明】であったと言ってもよい。

社会学史という分野を調べてもらえればわかると思うが、近代社会学の初期段階としてはフランスの社会学者コントが定番となっており、彼こそが実証的説明を強調し始めた第一人者である。まさに合理主義のデカルトを生んだフランス文化圏が、今日の一般的なニュース解説の特質である実証的社会学の祖国であったのだ。

では新たな池上解説は実証的社会学的説明にたいして何を持ち込んだのであろうか?

それはフランスのナポレオン勢力に対抗したドイツの歴史主義的解釈のようなものである。ドイツではカントがデカルト的な合理主義にたいして理性自体の吟味を始めてから解釈する側の知識の状況について注目して行ったように、社会的事実を無意識的な合理性でニュース解説することにたいして、社会的事実を解釈している当人自身の頭の使い方に注意したのである。【外側の社会的事件】の理解ばかりに限らず、その理解へいたるまでの疑問や質問からの獲得という【内側の頭の使い方】に、若干ではあるが焦点が当たり始めたのである。

なるほど、ドイツ哲学に詳しい人々からすれば、何やら池上彰と結びつけることに不満足を覚える方もおられようが、しかし従来のニュース解説とのちがいにおいてドイツ哲学を参照とする意義が少なからずも含まれている点を認められよう。



歴史の意義

池上彰はリアルタイムの事件解説に挑みながらも、歴史の必要性を説いていた。たいていの一般人はリアルタイムの出来事に対処するためにリアルタイムのニュース解説を求める傾向にあるのだが、一方で 「古きをたずねて新しきを知る」 的な意味がそこにはある。

ただし若い世代は 「昔は~だったのに」 的な【のに思考】を年配世代から聞かされるため、もはや若い世代も 「また始まった」 的な思いを抱くのが伝統となってしまった日本文化となり、老いも若きも双方が歴史に触れるのを避けるようになったのである。

そして歴史に触れなくなった結果どうなったかと言うと、現在を過去よりも発展したと見る考え方が権威を持つと同時に、社会学的説明や科学的説明が優位になり、どうやって選出されたか監視されないマスコミ好みのお呼ばれ専門家の意見が幅を利かせるようになったのである。そこに個人単位の知識獲得の歴史性に詳しい池上彰が現れた形であったのだ。昔の人々は昔における歴史的経緯に左右された知識獲得によって現実認識し対処していたと同じように、現代人も現代における歴史的経緯に左右された知識によって現実認識し対処しているのである。つまり我々の個人単位の知識獲得の歴史性(知識獲得の経過)を自覚するとともに、昔の人々の知識の使い方のちがいを比べることによる新たな現実認識が生じるのである。

過去が古くなったのではない。現在が過去を古いと見下しているのだ。「過去の栄光にすがりついている」 とか 「昔はよかったと思い出に浸っている」 と過去を見下し、その見下しの犠牲になりたくないために、みなが足並みを揃えて 「前向き」 と騒ぎ始めたのである。せいぜい 「昔があるから今がある」 的な考え方が歴史であったが、そうではなく、過去から現在へ至ったその順序経過自体を自覚することに歴史の意味があるのだ。

現代日本人は過去を見下し現在を輝かせようとする前向きバカである。過去の自分を見下すふりをしながら、実は現在の自分を有利にすることに一生懸命なのだ。その結果、老後は 「苦労して働いてきたから、のんびり暮らそう」 と願うのである。つまり老後については老後のリアルタイムを期待するのだ。またずっと過去から現在の自分の歴史過程を意識してこなかったから、改めてわざわざ過去の自分を思い起こす段階になると、「過去を振り返る」 と表現しなければならないのである。そうではなく、随時、過去から現在までの経過に注意を払っているならば、むしろ 「過去から現在までの新たな肉付け」 と表現されることなろう。

池上解説とは、リアルタイムの事件を詳しく説明してくれるものではない。過去から現在の経過を持続的に意識することへの入口なのである。つまり、「ニュースはやがて歴史になる」 とは、リアルタイムの現実理解に集中し過ぎていることへの警告なのである。

もはや我々は池上解説のわかりやすさに拍手をおくるのではなく、人間がどのようにして知識を獲得していくのかを学ぶ必要があろう。

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  1. 2011/08/01(月) 05:46:00|
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