思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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「自由」の社会学

「自由」の社会学とは、自由についての社会学ではない。「自由」という言葉と社会の関係を考察する社会学である。本ブログタイトルは「思考の社会学」であるが、一般的に知識社会学と呼ばれるものと同じ観点に立って考察される分野である。

「自由」には大きく分けて二通りの解釈がある。"現状の束縛や規制を排した状態"について言われる自由と、"現状の束縛や規制によって抑圧されているもの"について言われる自由がある。前者は【イギリス】的、後者は【フランス】的と分類できる。(岩波新書「自由」について クランストン著が参考になる)
世界史における市民革命を見れば、イギリスは1649年に国王処刑、クロムウェルの共和制にいたるもその独裁性から彼の死後1660年にチャールズ二世の王政復古となり、現在まで続いている。一方フランスは1792年に共和制、1815王政復古、1848で王政は終焉となった。
そこでイギリスの自由観について考えて見れば、国王が居なくなった自由の状態に、結局は予想しなかった独裁を見たのがイギリスである。王政復古の際にも国王側の意識改革が求められて、なされた復古である。つまり束縛や規制がなくなった状態も自由と考え、伝統保守と比較する文化である。まさに保守党と自由党の対立を通過してきた二大政党制の発祥の地にある。
しかしフランスの場合は、外圧で追いやられたナポレオン帝政の代わりに置かれた王政復古のようなもので、国王側に充分な改革要求が施されたとは言えない。急進的改革の混乱は何のその、ナポレオンの外部進出で内治問題をそらして進んでいったかのようだ。フランス革命の際の1793年に始まるイギリスを中心とした対仏大同盟とは、単なる国家間の利益闘争ではない。先に市民革命をなしたイギリスには保守思想なるものがあり、理念闘争の意味がある。勿論、イギリス国内にもフランス革命を支持した人々もいたが、保守思想という"伝統と自由"の図式が、無意識的にも広く共有されていた文化圏に相当していたと想像できる。代表的な人物は"保守主義の父"と呼ばれるバークであるが、彼は自由党の前身ホイッグ党の側だったのだから、ただの居座り保守の正当化ではない。功利主義ベンサム、J.S.ミルが登場したのも保守側の利益、改革側の利益と「利益は誰に?」という観点で論議されうる傾向にあった二大政党制だったためなのかは定かでないが。
こうしたイギリスとフランスの一般的な共有度が高いであろう知識形態の相違は、17世紀のロックのイギリス経験論とデカルトの大陸合理論の相違にも対応しているだろう。フランスでは、その都度合理的と見なされる理論で改革してゆき、イギリスでは、伝統や長老の経験にたいして新規の経験からの意見を示し戦わせながら改革されてゆくようなものである。

では日本での自由観はどうだろうか?天皇制が維持されているからイギリスの自由観に近いのだろうか?私が見る限り、日本の自由観はフランス的自由観である。イギリスの自由観は、恐らくイギリスに限ったものと思われるし、仮に伝統を重んじる文化圏が他にあるとしたら、「自由」なる言葉はそれほど使われていないと思う。要するに「自由」が多様されている文化圏はイギリスを除いてほとんどフランス的自由観だろうと予想される。
日本では度々「自由には責任が伴う」と言われる。個々人が自由に振る舞うことによって新たな問題が生じ、その問題を解決するために個々人にそう訴えるしかなくなった結果である。全く【個人主義的な理念】に満たされている。(「責任」の名に社会性が含まれていると考えること自体が個人主義的社会観に相当する)もし"保守的伝統と改革的自由"の対立図式を共有して対話していたならば、個人主義的自由の人々は双方から嘲笑揶揄されりことになるため、その"伝統と自由"の対立図式が優勢となって社会状況が変化したであろう。そもそも日本文化の伝統にそうした対立図式の理念が共有されていなかったため80年代からの多様化、またその多様化の利用(「80年代 伝統にたいする多様化」、「80年代 多様化の利用」の項を参照のこと)が勝負所になった。2010年3月、北野武氏がフランス政府からコマンドール章というものを受けたの象徴的だ。また前年、フランス革命を題材とした「ベルサイユの薔薇」の池田理代子も、他の勲章ではあるがフランス政府から受賞されている。
遡れば明治維新にいたるイギリスとフランスの動向はどうであったか?天皇制文化を理解していたイギリスのパークスは薩英戦争1863以後、西郷隆盛らを中心とする討幕派とつながり、江戸城無血開城1868にいたる。一方フランスのロッシュは最後の将軍慶喜側に寄っていた。ナポレオン帝政は将軍職に皇帝を見たのだろうか。各攘夷運動を、西欧自由主義に脅威を感じる単なる保守派の反乱と考え、将軍の説得のみでこと足りると見込んだのだろうか?いずれにせよ、明治維新にいたる両国の動向は、その両国の自由観の結果であった。
以後市民革命を経ていた先進資本主義アメリカ、イギリス、フランスは保護政策にたいして後進資本主義の日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟1940にいたった。後に全体主義、ファシズムについて書かれた著書、フロムの「自由からの逃走」がある。タイトルからしてそれはフランス的自由観の立場にもあるものだが、イギリスではわざわざ「自由にたいする恐怖」と改題されたことは、イギリス自由観の相違を如実にあらわしている。つまり伝統保守の維持とは、必ずしも自由からの逃避ではなく、自由による混乱を避ける指針でもあることを意味したかったためだろう。

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  1. 2010/03/15(月) 16:54:29|
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