思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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00年代 政治意識と社会観

学生運動が減退してからの70年代からと言うもの、急激に政治意識は低下していった。93年の政権交代と言っても政治家間の問題、社会人の政治談議の領域に留まっていたし、大きく政治意識が広まる契機になったのは、新規政界参入を目指した2000年の長野県知事選、田中康夫の立候補、当選を含めた一連の報道からである。その後、小泉純一郎、東国原英夫、橋下徹と続いているが、もともと田中氏の報道状況を参考とし順次先人の状況を見ては工夫を重ねてきた結果である。2000年以前の選挙報道はと言えば、もっと限定された分野、もっと限定された人々の意識にしか印象を与えなかったが、00年以降は内容の深さは別問題として大々的に広く人々の印象に残り、そうした多くの人々の印象に残ったということ、それ自体についても人々は互いに感じるようになった。こうした時代変化の要因の一つには、新しい社会と個人の図式が次第に広まったきただろうことも挙げておいて良かよう。例えば、モーニング娘の「LOVEマシーン」99、鬼束ちひろの「月光」00、中島みゆきの「地上の星」00などに、当時の社会観の変化を認めておける。

「LOVEマシーン」の歌詞、「日本の未来は、世界が羨む」とは、たいてい競争社会での独立自尊的な傾向の苦しみや喜び、あるいはそれぞれの希望や絶望を歌う曲が多い中で、独立自尊的理念の社会観を崩したものにあたる。実際のところは、独立自尊的理念の人々を利用し煽動した感じであるが、「LOVEマシーン」は国粋主義を借りながらも世界をライバルと見立てて、国内社会への参入の理念を共有社会観として提示する形で呼びかけるに至っている。また「LOVEマシーン」のイントロが、オランダのショッキングブルーの「ヴィーナス」69に酷似していることは有名だが、他にも若干ではあるが似ているイントロとして、イタリアのチンクェッティ「雨」69も挙げておきたい。「雨」の歌詞を見れば、それはおおよそ"意志と警戒の未来への進行"みたいなものであり、類似する「ヴィーナス」や「LOVEマシーン」のイントロにも、その進行するにあたっての危険にたいする警戒状況が含まれていると思う。
世界史を辿ってみれば、オランダとイタリアの両国は、ルネッサンス期に早くから遠近法の絵画が発達した地域に相当している。遠近法とは、視界について"自らの眼鏡に刻まれたような方眼紙的なもの"とする視界の平面化意識が必要とされ、かつ平面的視界と実際の立体的現実界との対比をも取り込むことで可能となる。(個人心理学的な視界の所有性に留まらず、他者も自らの視界の所有を自覚しているとみなす。画家は自らの作業のための視界への注意だけではなく、モデルの視線にモデル自身の視界所有性も感じなければならない。)要するに「LOVEマシーン」は、新たに広まってきたマイワールド的な意識にたいして、その意識には映らない外界の社会にたいする警戒を表すがために、ひょっとしたら遠近法の祖国で奏でられた、「ヴィーナス」や「雨」のイントロを用いる運命にあったと考えることもできそうだ。

そして「月光」のヒットについては、社会の不条理にたいする不満を多くの人々が抱いていること、そうした社会状況を互いに知らせ合った。私にとっては鶴田浩二の「傷だらけの人生」71「何から何まで真っ暗闇よ、筋の通らぬことばかり」を彷彿させる歌詞でもある。「マイブーム」97、「私的には~」00の新たな時代的意識による会話状況からは離れ、「こんな思いじゃ、どこにも居場所なんてない」と歌われ、80年代後半の「とんぼ」、「TRAIN-TRAIN」、「ZOO」(同00年、菅野美穂でリバイバルヒット)の側に立つ、主流からはみ出た側の社会観に属している。また「月光」は時代的な「私的には」の意識には達しているが、そうしたマイワールド的意識の現状の人々との会話にたいしては、大きい距離の隔たりがある点で主流に属していない。
歌詞の「I am god's child」について考えてみれば、存在論的には複数形の「We are god's children」の意味が含まれていて、一方、そうした考えを抱いていることの自分自身という一個人という点に関しては、単数一人称の意味が含められていると見た方がよさそうである。
「pride」96のヒットした時期、それに新しきを見た人々は、「星に願いを、月に祈りを」を捨て去り、二人の愛へと没入していったため、月あかりの方は取り残された形となった。しかしB'zがテレビドラマ「ビューティフルライフ」の主題歌「今夜月の見える丘」00を出している点で、鬼束ちひろの「月光」のヒットはある程度の理念共有化を果たした曲に属している。
古くは「月光仮面」58の頃、それは腐敗した世界に対して正義で立ち向かっていた。そう彼は仮面で素顔を隠して熱く燃えていたのだ。しかし正義の理念は次第に薄れていき、もはや自己陶酔とされる嘲笑の産物となった時代である。チャゲアスの「YAH YAH YAH」93の「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに、その気になればいい」を見れば、それは周囲の言葉による嘲笑揶揄状況を察した上で、新しき一つの手段を示した時期にあたる。もはや勇気だ愛だと騒ぎ立てることは、逆に敵に優勢な立場を与えるしくみを理解した時期なのである。
そもそも正義の理念が嘲笑の産物となった根拠とは何かと言えば、正義の実社会における無効用性、あるいは日常会話への満足化、効用化であるが、「月光」の場合、正義の投射は当然のこと、その日常会話への満足化からも遠く離れており、居場所がない形となっている。つまり「月光」とは、突然に正義の仕事をなくし、かつ素顔で生活することになった月光仮面のようなものである。マイワールドの会話普及により「YAH YAH YAH」のような「これから一緒に殴りに行こうか」といった呼びかけにも賛同を得られる時代ではなくなっていたと言える。一方、「YAH YAH YAH」のノリはと言えば、多少なりとも田中康夫の人々の賛同を得た政界進出の触媒となり、後の「抵抗勢力」01など、政界へ影響を残した理念を含んだものである。

「地上の星」の社会観については、「みんなどこへ行った、見守られることもなく」の部分に特に強く現れている。人々が空ばかり見ている社会状況では、それ故に見守られることがない個々人が生じ、見守られることがない故に他者を見守ることのない個々人となる。それはまるで「自己啓発ブーム」90の延長に伴う、自己実現に邁進する独立自尊の個人主義を意味するかのようだ。各職業の人々を紹介するNHK「プロジェクトX」(00~05)のテーマソングとなって「地上の星」は新たな社会観を普及する曲になった。番組のナレーション「~だった」の多用は、従来とは異なった目新しいナレーションとして注目を集めたが、それは従来の自己実現的な職業観にたいして、過去の出来事を列記するようなナレーションによって、従来の目標理念が中心だった意識から、歴史観的理念や社会観的理念を多少なりとも普及させるに至っている。

以上三曲の他にも、99年ヒットの「だんご三兄弟」や「孫」にも独特の社会観が投射されているが、ここでは触れずにおきたい。また歌とは一般的に個々人の心情が中心テーマとされる傾向があるため、社会観の投射のテーマは長続きしないものなのだが、しかしその中でも無理と新しき社会観の普及を阻止させようとする曲がある。それは「世界に一つだけの花」03と「アララの呪文」04である。決して曲自体に問題があるのではなく、その曲に関わる社会状況にある。喩えるならば、戦時中の"「同期の櫻」という曲"と"「非国民」という非難"を人々に普及させ利用するような立場のことであり、その曲の普及で自らの指導権を守れるしくみを利用する集団があるのだ。戦時中の「非国民」に相当する非難的言葉を、彼らが現在どのように好んで使っているか、大多数の人々は戦時中の人々と同じく知らない。彼らは社会には二種類の人種に分けて舞台設定しているかのようだ。彼らの抱いている社会観、それを読める人々が少ないから、彼らはそうしているのである。笑顔やお澄まし顔についての分類学が進めば少しは理解して貰えそうだが、まだ自らの笑顔を輝かせることに懸命な人々が多いので、しばらくは無理だろうし、そのような状況なので彼らの仕事も、ある種の笑顔とお澄まし顔で進められるのであろう。「自由からの逃走」を記したフロムらは指導者の心理について色々名称づけたが、彼ら指導者たちの抱いている社会観について殆どふれない。私の言う社会観とはマキャベリの「君主論」の延長で展開されるものである。やがては人々も「君主の社会観」ということを知る時代が来るのであろうか……

あと田中康夫に始まる政界進出に関連する事柄については、歌謡界における【挨拶形式】の浸透がある。

「気分爽快」94「飲もう、今日はとことん盛り上がろう」
「ズルい女」95「バイバイありがとうさようなら、いとしい人よ」
「これが私の生きる道」96「悪いわね、ありがとうね、これからもよろしくね」
「Can You Celebrate」97「二人きりだね今夜からは、どうぞよろしくね」
「長い間」98「長い間、待たせてゴメン」
「慎吾ママのおはロック」00「おはー」
「ハッピーサマーウエディング」00「父さん、母さん、ありがとう」

従来の選挙の場合には、政治家自身の抱く"政治家と選挙人"の職業役割についての伝統的な図式をもとに挨拶を行っていた。しかし田中康夫からは"政治家と選挙人の対面状況"という実際のコミュニケーションについての図式をもとに挨拶がなされ、かつ歌謡界と同じくマスメディアの介入状況の図式も考慮され始めた。歌謡界において挨拶形式の歌詞が盛り込まれることで対面状況の理念が人々に投射され、そして田中康夫のような選挙方法にも有利に働いたと思われる。

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  1. 2010/03/13(土) 05:36:34|
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