思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

マネージメント意識の心理学 ~品定め地位への憧れ~

マネジメント論の社会的影響

最近、マネジメント論というものが浸透してきた。しかし別に初めてマネジメントが生じてきた訳ではなく、新たに広まったこととは、マネジメントについての意識なのである。

たとえば 「もしドラ」 の高校野球でたとえてみれば、従来は大人の監督にマネジメントが一任されていたところに、新たに 「マネジメント論」 という言葉が普及したことによって、部員及びマネージャーの立場からでもマネジメントの提案が可能であることを示し、部員同士で互いにその新たな立場を容認しうる環境を用意したのである。伝統的には経験のある監督や信頼されたキャプテンが中心であった訳だが、マネジメントをする専門的立場に融通がきく自由度を示したのが、まさにマネジメント論なのである。

おそらく今までは監督のマネジメントに気を使い、ある提案が浮かんだとしても言い出せない雰囲気にあったろうし、提案することは周囲から出しゃばりと思われるため控えられていたのだ。ある新たなマネジメントの提案について部員全員が共有認知するには、そのマネジメント発信をあずかる監督という立場や、あるいは監督を議長した部員たちからの提案収集などが必要であったのである。つまり新たなマネジメントの浸透には、文化的流行のように社会的環境が受け入れてくれるだろうという雰囲気がなければ、各個人的な発動が困難であるのだ。伝統的な野球部の場合は、監督が新たなマネジメントを発することによって、当然各部員は従うものと思っているがゆえに自然と浸透するが、マネジメント論の場合は、そのマネジメント論が認知されることによって、新たな監督ではないマネジメントの発信人を部員全員に浸透させることを可能にしようとする訳である。

つまりマネジメント論とは、マネジメントの詳細を示そうとしただけではなく、【マネジメント発信元に自由度を与えた】のである。確かに経営の頂点をつとめる社長をはじめ、野球部監督などからも、マネジメントの直接的参考書として読まれてきたことではあろう。しかし今日のマネジメント論の普及に至るまでの歴史的経緯を問題とするならば、やはりマネジメント発信元に自由度が加わってきた点は、外すして考える訳にはいかない。



日本におけるマネージメント論

さて日本におけるドラッカーのマネジメント論の普及について考えてみるならば、一つに明治維新後の西欧思想の輸入と同じく、世界的潮流に目標を置いた日本人意識に深く関係している。そして今日の 「もしドラ」 で女子高生が対象とされていることからすれば、こりん星人でお馴染みだった小倉優子の自己マネジメント力の影響が働いた結果と考えておいてもよかろう。

古くは80年代の松田聖子は、山田邦子が流行らせたとされる 「ぶりっこ」81 と呼ばれ、計算高さにたいする揶揄とファンの絶大なる支持とに二分されていた時代であった。それが今や 「ぶりっこ」 ではなく、小泉今日子の 「なんてったってアイドル」85 から、「セルフ・マネジメント」 と呼びうる小倉優子の自己演出に至ったのだ。

その時代的変化には何があったのだろうか?有森裕子の 「はじめて自分で自分をほめたい」96 で他者からの賞賛を度外視した自己の立場が意識されるようになり、「ぶりっこ」 の価値が低減した。そしてGLAY 「HOWEVER」97 "暗闇を駆け抜ける勇気をくれたのはあなたでした" 、SPEED 「MY GRADUATION」98 "優しさと勇気をくれたよね" と他者から受けた影響を見るようになり、その自他の反転となった形で顧客への勇気授与となったものと考えられる。

特に2000年の長野県知事選の田中康夫や翌年の自民党総裁選の小泉純一郎から、伝統的な自画自賛の社会貢献にたいする反発によって新たな国民意識(顧客)の考慮がなされ、極めつけは韓国サムスン電気の海外進出にたいする日本のガラパゴス的な携帯電話の開発意識が反省されると共に、ドラッカー理論の普及へと至ったのである。


旧マネージメント考察の意義

しかし、ドラッカーのマネジメント論の世界的普及(?)とは、一体何を意味するのだろうか?全くドラッカーについての詳しい事情がわからないまま少々の予備知識から強引に話を進めることになるが、一つにはナチスドイツのヒトラー的なマネジメントへの批判と、もう一つには日本でも流行語となったドラッカーの著書 「断絶の時代」 に由来する 「断絶」69 にある。

たとえるならば、ナチスのような独裁企業が社員の不満を外部排斥の目標で団結させていたことにたいして、戦後は顧客ニーズの方へと価値が移行するだろうと示したドラッカーであろう。それはナチスのマネジメントから戦後の新たなマネージメントへの変移を意味する。しかし 「断絶」 が話に加わると、何やら伝統的経営組織が大半を占めていた中、次第に新たなマネジメントによる社会的台頭が問題に上がってきたのである。

自由な資本主義国ではテレビ普及などによって若者文化が生じて、世代間のちがいも顕著となって行った訳だが、マネジメントのやり方についても伝統と新規のちがいが生じてきたのだ。そうした方法のちがいからは、効率や生産性もしくは顧客ニーズの獲得にも恒常的な差が顕著になった訳である。

おそらくドラッカーは、企業内の生産性アップや顧客ニーズだけにマネジメント論の最終目標を見ていた訳ではなかったであろう。ドラッカーのおおまかな一連の著作の解説を調べてみたが、彼にとってマネージメント論とは、ほんの一部分を占めているに過ぎなかったのである。ただ各組織のマネジメント充実のための指南理論に限らず、マネージメント論自体の充実によって各組織が新たな競争段階に入るだろう状況を先取りしたもので、たとえば伝統的な生産性や効率などを脅かすであろう新たなマネジメント論の台頭により、やがては周辺集団へと模倣されながら浸透して行くであろうことさえも、想定内に入れていたと言える。



マネージメント発展論

なるほど社会の発展論については、ドイツのヘーゲルが弁証法的精神の発展を示し、をフランスのコントは宗教、形而上学、実証的科学と知識の発展段階を示していたが、ドラッカーの場合は社会的生産性を高めることによって周囲からの関心を集めることになろう【組織内の連携を促す知識】としてのマネジメント論が、あちらこちらと発展させながら社会的に浸透していくであろうことに、世界的な発展論のようなものを描いていたのである。

要するにドラッカーは、ただ競合他社に打ち勝つための【自社繁栄のため】のマネジメント論ではなく、マネジメント論には様々な人間関係を繋いでゆく心理学などのあらゆる知識が随時生み出されるものがあって、そうした広い社会状況の中で卓越した知識のコンクールが行われていると考えうるのである。(繁栄がコンクール受賞を意味し、その結果、周辺他社の関心が集まり普及につながるのである)

そうしたマネージメント開発から発生する新たな知識に、世界的発展もしくは展開の動力源を求めることが出来るのであるならば、ヘーゲルやコントの知識発展論の延長としてドラッカーのマネージメント論が位置づけられても悪くはないだろうし、それこそが自社繁栄のみを目指すだけのマネージメント論でないことの意味となる。よく【社会貢献のためのマネージメント論】と言われるが、相手も得し自分も得するという一方的な発信にあるのではなく、相手方の発展に自分側への課題を持つ二方向性に社会貢献があるのだ。

たとえば大企業がゴッホの絵画を高値で買い展示することは、ゴッホを紹介した一つの社会貢献である。しかしその紹介態度について批判を下すのも社会貢献であり、その批判を受け止めれる社会貢献が求められるのだ。なるほどマネージメント論には社会貢献が欠かせないとは言え、しかし社会貢献の考え方、つまり貢献観の発展とその普及自体がマネージメント論の中に示される必要性が残されていたのだ。まあ~、今のところは役に立たない新たな貢献観であろうから、必要とはされないだろう。

結局ドラッカーの理論とは効果があると自らみなす効果を宣伝し、貢献していると自ら見なす貢献を宣伝することに利用されている感じは否めず、ただ 「社会貢献」 を誇張しながら顧客獲得競争のための宣伝合戦の段階にある。つまり顧客の貢献観を計算するマネージメント組織であり、まだまだ顧客の貢献観を変革させると言った、そんな社会貢献をマネージメントできる社員教育の知識はない時代である。



【ドラッカー理論に御用心!】

現在の日本に見られるドラッカー理論の人気とは、経済的繁栄を目指す企業から必要とされる自己ステータス獲得のための知識と言った感じが強い。あるいは人々(顧客)の役に立つためのマネジメントの意味もあろうが、しかしそのマネジメント自体が、まるで大衆操作的な隠し持ち知識の雰囲気で一杯なのだ。

なるほど職人的技術と等しく、マネジメント的技術も企業財産もしくは個人的知識財産ではあろう。しかし日本におけるマネジメント論の普及宣伝には、様々な企業がそれぞれ機密性を守りながら顧客市場で競争していることが問題視されないまま、ただ人々の個人的な未来予想図に入り込みながら期待を膨らませたり、他者を指導する立場へのステップアップしようとする期待を煽っている雰囲気にある。つまりマネジメント論の宣伝元自体に、何か隠されたマネジメント意識を感じるのだ。実は提供されているマネジメント論自体は軽めのどうでもよい情報であって、実際の隠し持っている知識によって、他の社会的効果を狙っているかのように見えて仕方がない。

と言うのも、題材に扱われる領域はマネジメントが行われる内輪の知恵絞りに限られているし、あるいは対象とされている顧客が限定された人々であるにもかかわらず、まるで全体的社会のごとく壮大化することに力を注いでいるからである。また 「顧客を考えることが組織発展である」 と説明するのも、【組織が安定しないのは顧客を考えていない証拠】と不安意識を煽るためになされるのであり、ある程度の地位がある人々からすれば、流行っているドラッカー理論を読むことにより、悩んでいる人々にたいして自然と世話焼き役を獲得できる訳なのだ。

彼らの成功の秘訣とは、実はドラッカー理論とはかけ離れた別の箇所にあるのに、どうでもよい流行りのドラッカー理論の方で相談役を引き受けられる形である。もし仮に不服そうな顔をされたものならば、「だから駄目なんだ」 と叱咤激励をすればよく、上手く行ったら感謝される。また肝心の知識財産を漏らさずに優位な立場につけるから、流行っているドラッカー理論を読む価値も上がる訳である。たとえば社長に抜擢されたドラッカー理論に陶酔した浅はかな人物が我々のもとにやってきたものならば、彼が自ら自負する気配り上手にたいして、我々は不機嫌を与えないようにと、彼よりもさらに大きな細心の気配りが求められることになろう。

こうしてドラッカー理論には、我々の発想を豊かにする面と安上がりな押し売り教師を育てる面の両面性がある。たいがい人気がある理論と言えば、読者それぞれの解釈がなされることとなるから仕方がない。最近の日本におけるドラッカー理論普及についても事情は同じで、どちらかと言えば用心すべき方を強調しておきたい。

せめて今日のドラッカー人気の貢献は、現行マネージメント階級による小理屈舞台の確立、あるいは次世代の歴史観なき小手先操作の養成にはならぬよう、せいぜい若い頃からのマネージメント論とのふれあいに留まるよう願う次第である。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2011/06/11(土) 14:06:52|
  2. 現代思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<あちらこちらの噂を思ふ歌 | ホーム | 顧客の消費意識とマネージメント ~80年代からの日本~>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/296-88758675
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。