思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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エスノメソドロジー ~内集団従属思考の社会学~

ガーフィンケルの用語 「エスノメソドロジー」 とは何であろうか?それはエスノ ethno 「民族」 、メソド methodo 「方法」 、ロジー logy 「学」 が組み合わさった用語である。

どうやらエスノメソドロジーとは、それぞれの集団がそれぞれの共有した方法論に乗っ取っていることを意味し、その状況について社会学的に解明しようとするもののようだ。「民族」 とは、様々な民族的集団社会を意味することから、それぞれの内集団に限定した社会状況を取り扱うガーフィンケルの表明である。そして、その集団でなされている会話や発言を中心とした、彼ら帰属した人々の方法論使用状況が社会学の考察対象にされる訳であろう。



まずはじめに断っておきたいのだが、何より私が参考としたのは邦訳書 「エスノメソドロジー 社会学的思考の解体」 せりか書房 と、ちょっとした解説書の数々だけである。そんな状態で言う訳だが、ガーフィンケルを読むには、予備知識としてサムナーの 「自文化中心主義」 や 「内集団・外集団」 を踏まえるのがよいと思う。

実際、ガーフィンケルはパーソンズ師事の側からシュッツの現象学的社会学を取り入れようとしたのであるが、そのシュッツもサムナーの社会学に充分注意を払っていた形なのである。言ってみれば、エスノメソドロジー 「民族方法学」 とは、サムナーの用語を借りて 「内集団の方法学」 もしくは 「内集団従属思考論」 なのだ。そして、「集団内」 ではなくて 「内集団」 であることが、エスノメソドロジーを理解する重要な一つでもある。

つまりエスノメソドロジーとは、集団内にいる人々を調べるのではなく、頼りになると思っているだろう各人が抱いている内集団のイメージと、それに付随する思考によってなされる会話や説得などから生じる社会的結果を考察しようとするものである。そうした考察を施す際には、たとえば互いに相手について比較的同じ内集団に属した者同士と見なす会話もあれば、互いに相手を外集団に属する者と見なしながら、それぞれ自らの内集団帰属の習慣によって会話が始められる場合など、色々な場合が想定される訳である。あるいは精神科医と患者のように、内集団に帰属に権威を持てる精神科医のような立場もあれば、他者へ権威を示せないまま漠然とした無意識の内集団イメージを参考にするしかない患者のような立場との対面状況も想定される。

要するに、公平無私な発言などは、学術分野も含めて一つもなく、みんな自分の意見を言っているに過ぎないのである。しかしそれは心理学的に自己中心的発言と解釈するのではなく、何らかの社会的仲間を想定したり、あるいは味方につける形でなされる、自民族中心的発言(内集団中心的発言)と社会学的に解釈される訳である。まさにエスノメソドロジーが、科学論で言うところのトーマス・クーンの立場にある由縁である。

そうした事情からして、ガーフィンケルを読む場合には、一つに小説の登場人物のようにあらかじめ過去を背負った人々と見なすのがよいだろう。突如と断片のみを切り取られた結末がない小説を読むかのように、現実社会を見るよう心掛ければよいのだ。ただし中には小説の登場人物の気質なり性格を解釈することに一生懸命になってしまう者たちもいるかも知れないが、そうではなく、個人とは過去を背負い、何らかの内集団帰属性を描きながら思考し会話をする者と認識することが、エスノメソドロジーの基本姿勢なのである。

ガーフィンケルが示した事柄としては、心理学者とは心理学民族の出身者で、社会学者とは社会学民族の出身者に過ぎないということが含まれている。たとえば一般多数の人々に相当する鎖国日本民族の中、突如として心理学民族と社会学民族が黒船に乗ってやって来たといった感じである。エスノメソドロジーとはすべての個人を【民族出身】と見るものであって、心理学民族出身である心理学者たちとは、彼らの学派的な内集団で帝国主義的な【方法学】を囲い込みながら自らの説明を行う人々である点を、明らかにしてくれるのである。



我々は小さかった子供の頃を思い出せばよい。「あっかんべぇ~」 をやられた経験と 「あっかんべぇ~」 をやった経験を、全般的社会状況に拡張すればよいのだ。「あっかんべぇ~」 発信側は、自身の内集団考慮の成功を外集団へ示す行為であり、「手が届かないだろう?」 と微笑むのだ。大人の前では良い子のように振る舞い、陰でこそこそ策略を練るが、同時にその策略が子供内でバレたとしても大人にはわからない領域であることを示すのである。

しかし次第に歳を重ねていくと、大人を味方につけることが出来なくなり、自分が常識発信源となるような地位獲得とか言葉使いの工夫などをこらしていくのである。つまり自らの内集団を背負った風貌計画に目指し、仲間同士の囲い込み体制の確立とか外集団や特定個人の見下し宣伝などを繰り広げるのである。今回の福島原発の政府や東電などの対応も、見事な各内集団を配慮するだけの自集団中心主義の発言であったのだ。

大津波の直後から情報の出し惜しみが、そもそもの自集団中心主義の始まりとなった。政府や東電など、それぞれの伝統的囲い込み体制のまま進んでしまったのだ。政府は自らの責任を多少棚上げするぐらいの技量で、東電の内集団守護である情報公開状況に監視を向けるべきだったのが、政府と東電の連携による情報公開の出し惜しみとなった訳である。裏事情は我々にはよくわからないが、確かにそれぞれもしくは連携的に何かが計算されたのである。

その緊急事態後になされた裏の計算に、それぞれの内集団思考が働いた。つまり政府民族の方法と東電民族の方法と、それぞれにエスノメソドロジー(民族方法学)が働いていたと考察するのが、ガーフィンケルの社会学の行方である。管総理大臣に管総理大臣のリーダーシップを求めるよりは、彼の帰属する政府もしくは内集団を監視しながら結束することが必要であった。たとえば小泉内閣が抵抗勢力の名で外集団への監視を国民へと広げたように、東電の情報公開の仕方を監視する形で結束し、国民に示すべきだったのだ。

政府と東電に限らず、あらゆる原発専門家や経済界やマスコミ界の評論家など各内集団が民族単位に分かれながら、各人がエスノメソドロジー(民族方法学)的発言を行っている。政府は福島原発の局所的情報公開ばかりに気を奪われないで、そうした全国に広がっているタコツボ的なエスノメソドロジーの多様状況を、少しでも共有認識されて行くように発言する必要がある。まだまだ国政では考慮すべき事柄が不足している感はあるが、橋下大阪府知事が最もエスノメソドロジーの社会的配分状況(タコツボ的な内集団結束の社会的配分)を理解している一人であろう。鳥取県知事との鳥取県会議員数にまつわる批判後の余裕ある謝罪は、かなりの外集団監視意識がある証拠であり、鳥取県知事に外集団監視意識ある同士と認めた結果を意味するであろう。

エスノメソドロジー論とは、政治的発言にも充分に適用されうるものである。各人が行っているエスノメソドロジー的な内集団帰属思考とは、心理学的や社会学的な観点に限らず、文化論的かつ歴史学的観点が必要なのである。なぜならば、自身の内集団帰属思考を相手方に優位に見せようとする工作には、歴史的に変化してきた文化の影響を受けた各人が行っているからである。各人が行っているエスノメソドロジー的な発言とは、自分以外の様々な人々のエスノメソドロジーの状況を計算したものであり、すべての各人が大なり小なり行っているものなのである。まさにエスノメソドロジーとは、それぞれが自集団中心主義的思考を働かせていることを基礎として研究される社会学であり、サムナーの 「エスノセントリズム」 や 「内集団・外集団」 の予備知識を併せて臨むのが基本である。



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  1. 2011/05/29(日) 23:38:15|
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