思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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個人心理学の狙いどころ ~フロイト囲い込み集団の誕生~

カラオケとは、日本において 「空」 の 「オーケストラ」 から出来た言葉である。それまでは伴奏を伴ったプロ歌手の歌声を聞いていた時代から、その歌手の歌声を消したものがカラオケとなった訳である。

ところで伴奏をオーケストラと見なしたカラオケの語源であるが、そこには何やらウィーン管弦楽団の社会的協調秩序らしきものを感じる。ある意味においてカラオケには、個人の所属社会が象徴されているのだろう。つまりカラオケで歌うのは、社会状況の中(カラオケ)にいる個人(歌い手)の社会参加態度の形態を意味しているのだ。



そこで心理学史へ話は移るが、精神分析を広めたフロイト(1856-1939)がオーケストラで有名なウィーンを拠点にしていたことが問題となる。その後のウィーンにしても、アドラー(1870-1937)、クライン(1882-1960)、ライヒ(1897-1957)、コフート(1913-81)、カーンバーグ(1928-)など、精神分析に関わった人物が多々輩出された点からしても注意に値する事柄なのである。

おそらくウィーンとは、オーケストラを通して色々と社会的秩序への協調性が各個人に強く求められる、そんな文化圏にあったと考えられてもよいのではなかろうか。つまりオーケストラ的な社会的調和が確固たる伝統理念として浸透していたウィーンであったがゆえに、社会的批判は極力抑えられ、その結果、精神分析的な個人の治療に話題を集中させる理論が発生したと考えられるのだ。

たとえばフロイトは"イド"と"自我"と"超自我"という解釈図式を示していたが、超自我とはカントで言うところの実践理性に相当している感じだ。しかしフロイトは、【文化的な環境によって無意識的に感じてしまう】であろう、「オーケストラ的調和を守らなければならない」 とする刷り込みや 「社会的批判とは社会的調和を乱す自己正当化」 という考え方による自身への抑制としては、充分に考えてはいなかった。

たとえば強迫観念については、それを個人内の仕組みとして限定しながら説明する傾向に偏り、【文化的環境に反応する様々な近隣人物がいる社会的分布状況】などが充分に考えられていないのである。社会批判自体を自己正当化と見なす伝統的な協調理念(対象愛)が強かったであろうウィーン文化の影響か、フロイトの後に続くコフートやカーンバーグたちは、協調性なき自己愛(対象愛の欠如)をテーマとするナルシシズム論へと傾いている。

まさにナルシシズム論への傾倒とは、幼児の自己愛から社会性獲得への発達を前提とした解釈図式にあると言ってよい。協調性理念が強いウィーン文化で育った彼らだったため、自身が獲得した協調理念が働いていない幼児に自己愛を見てしまったのだ。なるほど自己愛と名づけてもよいのだが、しかしその自己愛を吟味検証している心理学としての自分自身の自己愛の変化について語らないことが問題なのである。彼らは他者の自己愛を色々説明してはいるが、説明することによって自らの成長を暗示させているに過ぎなかった。

しかしその他者解釈によって自己成長を暗示させてくれる理論を好む人々が集まり、現代社会の新たな知識階級を作り出されたのである。心理学者とは、ある特定の自分を成長した者と暗示させてくれる理論に共感した人々を集約させることに貢献し、まずは子供の未熟な自己愛を説明して歩いた。こうして彼らは人々を品定めする専門家としての地位を獲得した後は、次第に一般の大人社会にも自己愛の残余を指摘しながら、自身の囲い込み集団の価値(協調と自己愛の尺度)を社会的に高めていくるのに成功した。

彼らは自らの心理学的理論の社会的影響、つまり【人物評価による社会的影響という現実】については語らず、ただ自身の人物評価を社会的貢献と思い込むだけであった。しかし別に心理学者だけの問題ではなく、それを欲していた特定の一定多数が互いに支え合い、親切の押し売り階級となって人々を恐縮させ始めたのである。まさに囲い込み集団同士に限ったものではあったが、確かに協調性が身に付くまでに成長(囲い込み対象愛の獲得)した人々であったと言え、最初の国際精神分析学界が開かれた1908年、この年こそ専門家の囲い込み人物評価の発信が許され始めた記念すべき年と言ってよい。

おそらく個人心理学の台頭とは、教会権威が減退したために新たに期待された代用品の結果であったのだろう。教会の 「罪」 の評価尺度が次第に効き目が低下した中、教育現場の教育者などから新たな生徒各人に植え付けておきたい抑制理念が求められたのだ。そのため 「罪」 が 「自己愛」 へ変換された形で、心理学者たちは牧師の役割を果たした訳である。

さらにカーンバーグの場合には、ナルシシズム論と共に、神経症と精神病の間の新たな "境界例" を分類に含めたことで、身内仲間によって重宝されながら現在にいたった。別に境界例による分類の緻密化がすべて無意味とは言わないが、しかし社会的に浸透している他の様々な理論の分類をしながら、自身の心理学的理論を社会全体の一理論に過ぎない点には注意せず、ただ自理論内の分類を豊富にすることだけに集中していたから笑えるのだ。境界例なんかが話題となれば、身内支持仲間の箔付けに応えているだけなのに、まるで全世界の真実の厳密化の期待を背負った気分に満たされながら自身の仕事に励んでしまったから、こちら側としては苦笑い以外に何も言えなくなる訳だ。

そうした分類の細分化の絶大なる利権とは、外部からの批判にたいしては検討中と看板を掲げながら、自らの自理論に期待を寄せる選抜生徒へ向けた教師的説明に任務を限定できることにある。全く自理論の社会的害悪が広く発覚し大きな問題になるまでの時間稼ぎみたいな役割が、その分類の細分化が担っているのである。

たとえば保守的政治家が、人々が求める質問とは異なった答弁をし、自身が関係するしがらみ利権を守るため、ただ自説の社会的役割の必要性のみを繰り返すのと似た態度にある。彼らが人々から聞いてもらいたい質問とは、自理論の専門的な分類状況の詳細のみであり、他の質問は答えないまま、ただ自らを必要とする精神患者へ向かってはその成果を報告し、自らの貢献を示すことだけが優先される人々である。

古代ローマ人は自らの公共意識を誇ったが、ウィーン派は他者の自己愛の教育役を始めた。ストア派は幸福への努力を呼びかけたが、ウィーン派は不幸者の実況解説を始めた。ウィーン派の方々も新たな科学的な方法で人間の真実へ近づこう努力されていたのだろうが、しかし過去の人々は非科学的であったと一方的に卑下してしまったために、結局は彼らの自己愛論も、ただ他者を卑下する態度のまま理論づけられて行くことになってしまったのである。

個人心理学とは、まさに科学の名を借りた他者卑下の放射である。そんな他者卑下の心理学が浸透すると、大多数は自らは犠牲者にならないように気を付ける。心理学者たちにとっては、まさにその自らが放射させる他者卑下評価を避けてくれる状況を見て、自らの理論の社会的力に喜びを感じていたのである。同業者から批判を受けても、一般社会に効果があれば安心と言ったところなのだ。たとえばナチスから見たユダヤ人卑下評価の発信や戦中日本の指導者から見た非国民評価の発信と同じ立ち位置である。日本の80年代で言えば、自ら発信させた 「ネクラ」 卑下評価の社会的効果を観察していた人物の立ち位置と何ら変わることはなく、心理学者ではなく心理芸人と呼んだ方が、実際の彼らの仕事の意味を理解するのには有効である。

全くそんな理論が心理学という学術的地位として維持されているのが現代社会であるから、早急に 「心理産業」 と自らの実態を公表する方向へ改名してくだされば、現在励んでいる社会的貢献なんかよりも、もっと多大な社会的貢献を果たせるのではないかと期待が待たれる。

彼らは社会的かつ文化的環境を理論内容に入れようとせず、ただ自らの生物学的領域のみを主張する傾向にあった。いや、自らの理論が社会的かつ文化的環境をこっそり見るのが趣味だったため、触れたくなかったのだろう。それを、まるでこちらが生物的かつ生理的要因を否定しているかのように、自らの生物学的方法を主張していたのには呆れる。実際のところ、生物学的要因は思ったよりも狭く、社会的文化的要因を優先させ生物学的領域を定めていくのが筋だった。



こうして考えてみれば、心理学者とは他者干渉を覚えたオーケストラの指揮者である。愛好者を扇動しては、部外者にオーケストラ感想文を求め、品定めするのである。しかし部外者としては、強固なった体制に意義を唱えても充分な成果は望めないので、仕方なく自分好みの空オーケストラに合わせて歌うしかなくなるのであろう。つまり現代心理学とは、自身に向けられる批判を、自ら放つ協調性理念の力で撃墜できるように工夫されている。

いやはや、しかし大震災後の心理学活動を茶化しているかのように宣伝されては、どうやら、こちらがやられちまうことになりかねない感じだ。いや相手にされる見込みがないから、安心して記しておけたと言った方が正しいかも知れない。いずれにせよ、この次はもっと心理学体制に疑問を持つ当事者勢力があらわれてから、それを支援する形で述べた方がよさそうだ。この世は他者批判で自己正当化するのではなく、他者批判をしない自己工夫の覗き見的知識で競争していくのがルール。ならば政治批判をする奴らは 「自らが政治家になれ」 って言うことになりそうだが、実際はそうならない。どうやら勝負どころは、匿名多数が判定する、批判の自己正当化と見なされるか代弁と見なされるかの力関係にある。

多分、精神患者の幾人かは、大多数から自己正当化とみなされる批判意識を抱いている人々であろう。全く心理学者は人並みの自己正当化のしくみについて公平に教える義務がある。



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  1. 2011/05/23(月) 18:39:52|
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