思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ローマ帝国とキリスト教 ~試練と統治と勇敢の世界観~

イギリスのギボンが、ローマ帝国の滅亡の原因に蛮人とキリスト教に求めていたのにたいして、同じイギリスのトインビーは、それは原因ではなく一つの契機に過ぎないと、支配的少数から精神的に離反したプロレタリアートに注目するにいたった。

しかしローマ帝国内でキリスト教が普及しえたのは何故だろうか?ネロの時代には迫害を受け始めていたキリスト教徒なのだが、その後も衰退することなく広がって行ったことについて考えれば、つまりすでにキリスト教が広がるってゆく可能性を感じていたから、ネロも迫害を計画したとも言える訳である。

おそらく一神教であるキリスト教を初めて目にした保守的な伝統的人々からすれば、キリスト教徒に他者の意見を聞かない一方的な態度を感じていたかも知れない。しかしここで問題となるのは、後にキリスト教が浸透しえたことである。つまり保守的な伝統的説明も一方的な権威の発信の傾向があり、双方の一方的な説明にたいして、一体どちらがよいのかを選択しうる大多数が周辺で生活していたことを考えなければならないのである。

ただし対立していたローマ帝政とキリスト教の描いていた理念には、それなりの共通性があった。ローマ帝政側にはウェルギリウスの 「アエネイス」 に描かれたギリシャに追われたトロイア像があり、キリスト教側には旧約聖書の 「出エジプト記」 に描かれたエジプトに追われたイスラエル像である。次第にローマ帝国が混乱状態になるにつれ、人々は未来へ向かうために現在を試練と見る考えを求めるようになっていただろうと言えるが、そんな状況の下、ローマ建国へ向かうトロイアの試練か、それとも救世主キリストへ向かうイスラエルの試練かの二つの選択肢が横たわっていた訳である。303年には大規模なキリスト教迫害がなされていたようだが、313年のミラノ勅令では、もはやキリスト教の勢力は衰えず、伝統的ローマ建国の理念によって帝国の結束を保とうとする利得の可能性も断念した時期に相当している。

もちろんミラノ勅令の後にも、伝統的な祖先の偉業を崇拝する側からは、進行しつつあるローマ帝国が衰退を新キリスト教の浸透にたいする伝統的神々の怒りと論じた風潮があったらしい。(モンテスキュー「ローマ盛衰原因論」 19章3 参照) そこで極めつけが、五世紀に入ってからのアウグスチヌスの 「神国論」 である。帝国衰退の雰囲気が漂う中、ローマ帝国などの諸国家は地上の国と暗示され、キリスト教への関心を呼び込んだ形であった。



なるほど帝政初期はウェルギリウスの 「アエネイス」 のようなローマ建国へ向かう国家的結束の理念が広く適していたであろうが、属州を含みローマ人の間でも国家的結束の利益には属せそうもない階級が生じ、かつ力の争いに巻きこれることの不利益が顕著になるとともにキリスト教が浸透しつつあったと想定できる。

たとえば軍人皇帝時代(235-284)の頃は、次々に暗殺されたり帝位を失っても、その栄誉は昔に比べれば讃えられることが少なかっただろうと予想される。と言うのも、国家的統一の安定性のために期待されていたのに、もはやその見込みがない上層部なのだから帝国支配下の民衆からすれば当然であろう。

いやはや、すでにネロの時代、ウェルギリウスの貴族主義的なトロイアからのローマ建国にたいして、セネカの平民もしくは隷属階級のギリシャはエウリピデス由来?の 「トロイアの女」 とに分裂していたのかも知れない。ネロはキリストの処刑を殉教と崇める勢力にたいして、その殉教を崇めること自体も処刑に値すると言いたげに恐怖を与えながら、キリスト教徒の反応とそれを眺める人々の双方を試していたのだろう。しかしキリスト教からすれば、そうしたネロの迫害によって、ますますローマ帝政が 「出エジプト記」 のエジプトに似たように見えてきたと思われる。

もはや帝政に不満を抱く人々にとっては、ローマ帝国から逃れて新たな進展地を求めて自らの建国を目指すのでなければ、伝統的なアイネイアスの気持ちには同意できない(もはや現ローマ帝国をトロイアを陥落させたギリシャと考えながら)だろうし、さもなくばローマ建国から外れた神々に呪われる身と自らを定義しなければならなくなる訳である。キリスト教の普及とは、そうした内的プロレタリアートの側から浸透したもので、何故ストア派の哲学のみで満足しなかったかの方が重要な問題となる。

ローマの建国使命とストア派の個人使命との対立状況を見れば、伝統的ローマ体制へ訴えかける打撃力は小さかった。そもそもストア派は個人安命が主題であって、国家観の闘争はさほど問題とされないからである。またアウレリウスのような皇帝側にも浸透したストア哲学であって、結局は上層階級側からの勇敢表出に吸収された考え方であったのだ。つまりキリスト教によって下層階級側からの勇敢表出がなされ始めた訳である。度重なる迫害もキリスト教徒にとっては勇敢なる死の雰囲気が伴っていたのだろう。もともとローマでは勇敢が比較的重い評価基準の尺度であったので、キリスト教徒の死も容易にその勇敢尺度に合わせて解釈できたのであって、ギリシャ的な中庸理念からの自己保全の欠如といった嘲笑によって衰退することが少なかったのだ。

もし本気でキリスト教の普及を阻止したかったのならば、むしろギリシャ文化の中からはストア派ではなく中庸理念の方を広めるのが得策であったろう。だが実際は中庸より勇敢が優先されていたのがローマの伝統的文化であったがゆえ、キリスト教が普及しえた訳なのだ。イエスの死を勇敢と解釈しパウロが宣教した。そしてパウロの死を勇敢を解釈した人々がいたからキリスト教が普及して行ったのだ。ユダヤ人かローマ人かの区別が関係ない (「ローマ人への手紙」 1章14-16節)ように、勇敢についてもローマ建国のアイネイアスだけに限らないと、世界市民的意識によって達観されたのだろう。また古代ギリシャでもゼウスに立ち向かう勇敢なるプロメテウスを崇拝するプロメテウス教なる新興宗教のチャンスがあった訳だが、中庸理念が強いギリシャ文化であったため、勇敢理念が浸透していたローマ帝国内でのキリスト教普及まで時期が延びたのである。



ミラノ勅令以降、392年のテサロニケ勅令ではキリスト教も国教とされ、それまでの皇帝とキリスト教による勇敢の対立は緩和され、そして融合された。その後ゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国は滅亡するが、しかしその原因をキリスト教普及による軍隊の衰退と考えるのは伝統的ローマ建国に理想像を求める肯定派からの見解にすぎない。逆にローマ市民の軍役からの離反やゲルマン人の傭兵化などによって、新たな勇敢を求めたプロレタリアート階級がキリスト教に飛びついたと考えなければならないのである。そしてゲルマン人が侵入した後も、広く浸透していたこともあってか、キリスト教会の権威は存続したのである。

三位一体説が正統とされたことについては、ローマ建国のアイネイアスが英雄にされたのと等しく、キリストを英雄とした点でキリスト教のローマ的結果である。一方のアリウス派はキリストのみの神聖は認めずギリシャ的な人間論の追求の側にあった。(ギリシャ正教会も三位一体説を受け入れたが) つまり三位一体説が正統とされたことは、ローマ建国的勇敢とキリスト教的勇敢は対立していたのだが、それはローマ帝国内で勇敢の評価尺度が広く共有されていたことを意味する。



キリスト教とは、もともとは個人的自省や個人的倫理の厳粛を目指したものではなく、上層階級からの一方的政策や目標理念(ローマ建国的勇敢)と戦う対抗策であったのだ。むしろストア派の方が個人主義的理念に満たされていたのであり、キリスト教の場合はそれを理念的にも地理的にも国家的領域以上に広げようとする理念が含まれていたのである。国教化にいたる四世紀までのキリスト教には、若干偏狭で独善的であったとは言え、社会観を持ち合わせた勇敢があったのであり、やがて権威側に君臨した五世紀から、次第に個人の自省を促す教育体制の特質が増大し始めたキリスト教であろう。キリスト教がここまで普及しえたもともとの動機には、ただの聖なる個人資質の獲得に憧れた社会を見ない自己啓発ではなかったのである。

教皇勢力が強化されるようになってからは、キリスト教理念に独善性を感じる人々も現れてきたが、別にそれはキリスト教に限ったことではなく、たとえば日本で言うところの坂本龍馬を英雄的に語る人々も例外ではなく、ある面で独善的な憧れを抱きながら、その雰囲気を広く浸透させる信者たちなのだ。ルネサンス時代にはキリスト教理念が圧力を加える側にあったが、しかしローマ帝国時代のキリスト教は少数派であり圧力を加えてくるアイネイアス信者にたいして戦いを挑んでいだキリスト教徒だった点を忘れてはならない。



では何故、日本にキリスト教は馴染まないのか?それは中庸の評価尺度が強く働いた文化であるからだろう。ローマ帝政とキリスト教徒の対立には中庸理念の評価が割り込むことが少なかったが、日本の場合は囲い込み根回しの評価尺度と合わさって中庸理念が幅を利かせるのである。たとえば日本の作家の自殺(有島武郎、芥川龍之介、太宰治など)が多いことは、中庸理念の大衆的普及を感じられるし、デモ活動に自然な参加が出来ないことや一億中流意識、それから 「人騒がせ」 と言う迷惑者扱いが、その証拠である。安保闘争や学園紛争の団結も見られたが、参加側と観戦側の双方を含めて理念が伴った勇敢として続く大勢が生じなかったのだ。もちろん天草四郎の場合も同様であった。今日にいたる全般的な世界史知識にしても、宗教的知識から科学的知識の流れに時代的必然を見ながら、「日本は日本」 という未来志向が優勢となった戦後日本なのである。大きな転換期の一つである幕府派と薩長討幕派の対立も開国にまつわる上層もしくは中層階級の外交意識の争いであり、国内における上層階級と中下層階級の相互評価闘争ではなかったのだ。



まとめること、近代西欧思想の土壌を作ったキリスト教の浸透とは、ローマ帝国における勇敢の戦いの結果である。決してイエス・キリストに神聖が宿っていたからではない。それを英雄として広めようとしたパウロがいて、そのパウロに続いた人々がいたことに世界史的意味があるのだ。

キリストは 「自分を救ってみろ」 (「マタイ」27章40節、「マルコ」15章30節、「ルカ」23章35節)と言われた。それは 「救えないならば、私は従わない」 という中庸理念からの命令であり、命令した彼本人も、その中庸理念による評価尺度にさらされて生きてきたことを意味する。つまりキリスト教徒とは、今まで中庸理念に消されてきた事柄を、キリストを英雄視することで明らかにし、それを普及させた人々である。大多数へ普及させるには、少々のとぼけ面は欠かせないのは、現代のベストセラーも変わりなし。それを聖書のみを責め立て、ベストセラーについては寛大な人々を見ると笑える。自分はナンチャッテ余裕気分を保ちながら、他の者は深刻面していると覗き見解釈している、そんな囲い込み集団がここかしこに散らばっているのが現代社会である。他者に干渉されないだろう覗き見解釈の自称安楽椅子に自尊心を持つ者、死期を意識し始めた時はすでに遅し。非公開の自尊心が自らの神だったと独り悟り、芝居かかった自分を最後まで自分で見続けるのがよい。



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