思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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ゼロト主義とヘロデ主義 ~日本ガラパゴス化の世界史的位置づけ~

イギリスの歴史学者であるトインビー(1889-1967) の 「歴史の研究」(中央公論社 世界の名著73 訳出) では、ゼロト主義とヘロデ主義の分類が示されている。それは外部から進出して来る文化勢力にたいする反応の二つの形態を意味し、伝統的自文化の保守のための【外文化排斥】を意味するるゼロト主義と自文化との融合を図る【外文化摂取】を意味するヘロデ主義といった分類である。

日本については鎖国政策のゼロト主義にたいして少数の隠れキリシタンにヘロデ主義を見ていたトインビーであり、討幕の明治維新後の近代日本については、さらなるヘロデ主義を見ていていたようである。ただし日本のヘロデ主義的とは近代的な科学的技術改革という経済的な対外手段に限った傾向にあって、国内的な目的意識としては神道もしくは仏教などの伝統を保持するゼロト主義的状態であったと考えられています。(「歴史の研究」 九篇三章 参照)

なるほど古くは六世紀後半の崇仏論争にも認められるとおり、ゼロト主義とヘロデ主義の二つの対立を経験していた古代日本の歴史であろう。まさにそれはゼロト主義の物部氏とヘロデ主義の蘇我氏と言える状況だったのであり、その対立結果であるヘロデ主義の勝利とは、現代に至るまで脈々と続いてきた日本の外来文化にたいする態度が感じられるものでもある。

おそらく日本文化とは外的権威にたいしてはゼロト主義、外的文化にたいしてはヘロデ主義の態度を示してきたと言ってもよさそうである。今日まで継続されてきた天皇制にしても、一つに外的権威の侵入を阻止しようとするゼロト主義的特質と言えるのだ。幕府の開国政策に危惧を覚えた尊王攘夷論の時点ではまだまだ文化的にもゼロト主義的理念にあったのだが、次第に尊王開国というゼロト的尊王とヘロデ的開国が融合された体制へ向かった結果、明治維新となりえた近代日本であろう。

遡ること鎌倉後期の元からの朝貢の要求にたいして拒絶した北条時宗には権威にたいする日本のゼロト主義の特質が認められ、元文化導入についてはさほど賛否両論に分かれるほどの派閥闘争とならなかった時代だったと理解しておける。国内情勢については鎌倉時代の幕府体制の始まりから、次第に天皇制(朝廷)の政権権威は衰退していった訳なのだが、摂関政治の状況からしても廃止を考えないばかりか、必要なものとして現在にいたっている。

おそらく内治の現政権が歴史的に盛衰を繰り返えしてゆくであろう未来予想意識や外的権威にたいする防御意識からか、すでに天皇制の始まりの時期から、消滅することなき永遠なる一つの支柱の象徴的共有理念として、広く民衆を含んで浸透していた日本文化と言えよう。その理念は日本語を通して共有されているものと考えてもよく、外的権威を侵入させないまま外来文化のみを導入しようとする体制の基礎となっているものである。言語について言えば、日本語は韓国朝鮮語などと等しく、古来自言語のゼロト主義を基盤とした上で漢字導入をしたヘロデ主義の歴史にある。

明治維新へ向かう前の幕府の開国政策には、外的権威の侵入危機が感じられていたため、薩長を中心とする討幕勢力の隆盛になったのであり、かつ薩長の尊皇攘夷は尊皇開国と言った権威を阻止しつつ文化に限った開国の傾向へと落ちついて行ったのだ。幕府による開国政策の時期は、まだ権威と文化の双方のヘロデ主義であったが、薩長討幕派は権威についてはゼロト主義を強固とし、文化に限ってヘロデ主義へと変貌させたと言える。

明治維新後の日本は、おおよそヘロデ主義的対応によって国際社会に関わって行ったように思えるが、ただ1934年の国際連盟脱退から1945年の終戦の頃までは文化的にもゼロト主義的が強くなった全体主義となった。と言ってもそのゼロト主義的傾向は日本に限ったものではなくイタリアとドイツと結んだ三国軍事同盟のように、ブロック経済によって植民地経済圏を抱え込めた先進資本主義に対抗せざる負えなかった後進資本主義の特質である。

トインビーが解説するのには、ヘロデ主義の傾向については西ローマ帝国の滅亡後のノルマン人のキリスト教改宗などの動向にも見ていた。ゲルマン蛮族は西ローマ帝国の権威を奪った形だったが、文化については積極的にキリスト教を受け入れたヘロデ主義的導入を行っていたのである。ただ権威にたいしてはローマ帝国時代においてゲルマン人の傭兵化がなされていたのであって、すでにローマ帝国内でゲルマン人のヘロデ主義的文化摂取が進行すると共に、ローマ帝国の権威体制自体が低下していたのだろう。



そもそもゼロト主義とヘロデ主義とは、外的な強い勢力にたいしてなされる対応のことである。つまりスペインやポルトガルの世界進出以降から現在にいたるまでの時期に限定してみれば、帝国主義的進出にさらされた各諸地域の中、植民地化を避ける勢力を保てた文化圏の特質を表す概念なのである。またナポレオンによる大陸進出の収束によって諸国均衡が求められたウィーン会議(1814)やアメリカのモンロー宣言(1823)などに関わった国々の場合は、先進的西欧思想を共有した上での独立性や進出性を認め合うライバル関係であって、外的な西欧思想にたいしてのゼロト主義とヘロデ主義の国内分裂はほとんど問題とならなくなった国々である。

そんな先進的西欧勢力の進出にたいしては、新たな自国体制の行方が問題とされるようになった東洋なのである。たとえば顕著な植民地化にまでいたらなかったがアヘン戦争(1840-142,1856)にさらされた中国の場合、ゼロト主義的国家的団結の不徹底のためアヘンの国内浸透を招いたものと考えられる。比べること井伊直弼の条約締結(1858)については、それが中国で生じたアヘン戦争のようなゼロト主義的不徹底を感じたために、薩長を中心とした尊王攘夷の勢力が生じた日本だったのである。また朝鮮半島でのゼロト主義的な排外理念の東学党の乱(1894)の際には、清国と日本の手を借りて鎮圧にのぞんだために、国家的権威におけるゼロト主義的統一の地盤を失った李氏朝鮮だ。甲申事変(1884)に見られるような清国に向く事大党と親日に向く独立党に分裂していた中で、東学党によって李氏朝鮮のゼロト主義的権威の確立に向くどころか、内乱のまま外国の手を借りた形となったために、明治維新のような権威のゼロト主義と文化のヘロデ主義の体制が不可能となったと言える。

中国がゼロト義的な国家統一に至ったのは、おそらく1949年の中華人民共和国の成立宣言の時であろう。1936年の抗日統一戦線も、結局は1940年に日本と協力した新中央政府が南京に立てられたし、日本の敗戦後もアメリカの援助のもと国民党軍が共産党を攻めている。外国権威を入れない国内対立へ限定されたのは、ソ連の援助を受けて統一した共産党勢力による1949年中華人民共和国の成立宣言と見なせる。朝鮮半島については日本敗戦によって解放され後、ヤルタ会談による北側ソ連と南側アメリカに分断され、朝鮮戦争の停戦協定となった1953年、南北それぞれに分かれてゼロト主義的な権威統一に至っている。日本は1867年の王政復古、中国は1949年の中華人民共和国成立、朝鮮半島は1953年の南北停戦協定が、それぞれの外国権威介入の必要性を排した現在にいたるゼロト主義的国家意識が共有された時期と見なせる。

つまり資本主義的な西欧の進出にたいして全く権威のゼロト主義が保てなかった地域が植民地となり、国家的なゼロト主義を保持しながら文化的ヘロデ主義になったのが日本の明治維新であり、国家的なゼロト主義を保持しながら文化的にもゼロト主義であるのが現在も続く北朝鮮である。

日本の西欧思想輸入による技術的革新について、トインビーは 「ヘロデ主義的手段によってゼロト主義的目的を達成しようとした」 と記しているが、逆に 「外国権威にたいするゼロト主義的結束の基盤があったゆえに、ヘロデ主義的な西欧思想の輸入が促進しえた」 と見なす必要があろう。もし権威についてのゼロト主義が確立されないままヘロデ主義が進行するならば、植民地化もしくは国内の権威分立となるからである。

ともかく日本の明治維新とは、東洋の中で政権的ゼロト主義(国家的独立性)と文化的ヘロデ主義(西欧思想の民間的輸入)を早くから融合し始めたことを意味し、そのため第二次大戦後に飛躍的変貌を遂げることにもなりえた訳である。

しかし西欧文化にたいする日本のヘロデ主義的な自文化との融合と言っても、その日本が積極的に受け入れた西欧文化の領域とは、全体的な西欧文化の領域と比べれば相当に限られた分野に偏っている点を忘れてはならない。それを夏目漱石は 「外発的開化」 と呼び、加藤周一は日本文化の 「土着世界観」 を基礎とした上の偏向した西欧文化の摂取と考えていた。

実際のところ、日本の西欧化にはキリスト教の影響が小さい。内村鑑三の提唱していた無教会主義とは、教会権威の侵入を排する日本の伝統的権威のゼロト主義的な保持に配慮した形なのだが、それでもキリスト教理念の解釈は他の科学的分野の浸透に比べればかなり少ないのである。1873年にキリスト教禁止令は解かれ布教自体が問題ではなくなったし、権威拡張の突進的布教もなかったと思われもが、100年以上たつ現在のキリスト教理解はかなり低いように感じられる。とある1983年の出版本によれば、日本の1パーセントに比べ、韓国のキリスト教信者は23パーセントと歴然とした差が記されている。単純に信者割合では計れないのだろうが、日本は権威的にかなり強固なゼロト主義にあり、そのためヘロデ的に西欧科学を参考したのだが、電化製品などの開発についてはゼロト的であったためガラパゴス化となってしまい、他方の韓国はキリスト教の導入によって文化と権威体制の関係を実感しえたために、諸外国の需要意識を考えるヘロデ的な製品化に向いたと思える。


国家の帝国主義的な外国進出とは異なり理念的な進出となりますが、古くはフランス革命の 「自由」 も一種の外国進出の様相を帯びたものとなり、周辺諸国の対応にもゼロト主義とヘロデ主義とに分岐した地域分布図が描けそうでもある。

イギリスの保守主義の父と呼ばれるバークは、フランス革命自体が考慮していない伝統を自文化に立脚した見解を示していた点で、ゼロト主義的な立場でした。もちろんイギリス国内にもフランス革命を支持するヘロデ主義的な人々もいたようですが、バークは影響のある一つのゼロト主義的な態度でフランス革命を見ていたのだ。第一回対仏大同盟とは、まさに自国波及を恐れたゼロト主義同士の協力体制であり、またドイツの場合は、権威のゼロト主義にたいして文化についてはフランス合理主義を批判的に参照しながら、新たなカント哲学やランケの歴史学などヘロデ主義的発展に至った。



いずれにせよ、アフリカ諸国の独立に1975年のベトナム戦争終結と、諸国の権威的ゼロト体制が均衡化されてきたため、現在ではゼロト主義とヘロデ主義の分類はあまり重要ではなくなった。むしろ諸国がゼロト主義的に均衡化された中、それぞれの諸国が外国文化を導入している、そのヘロデ主義のそれぞれの形態を見極めることにあろう。ただし、その現在のそれぞれのヘロデ主義的な外文化の導入を理解するのには、過去のゼロト主義とヘロデ主義の混在した歴史的経過も理解する必要がある訳である。

比べること、歴史を見ず未来を指差す 「グローバル化」 とは、部分的理念の開拓が狙いすます世界階層化の危機を招くだろう。



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  1. 2011/05/06(金) 22:36:00|
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