思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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旧約聖書の長子特権 ~アベルとカインの社会学~

エサウは誓って長子の特権をヤコブに売った。

「創世記」 25章33節



御覧のとおり、旧約聖書では早い段階から双子の兄エサウと弟ヤコブにより、長子特権について記されている。しかしそれ以前の文脈を確認してみたところ、これと言った明確な長子特権が生じた決定的な叙述はないため、自然とあらわれた当然な特権として扱われていた長子特権と考えられそうである。

すれば兄カインと弟アベル(「創世記」 4章)の物語についても、そのカインとアベルのいた物語中の時代ではなく、創世記を伝承する人々の立場として、カインに長子特権の意識があったであろうと想定した方がよい。つまりカインがアベルを殺したのは、ただの嫉妬ではなく、長子特権が正当になされていないことへの怒りもあったと見なせるだろう。

だが旧約聖書自体の意図からすれば、長子特権とは神との契約で生じた事柄とは見なされていない。ノアは長男カインの子孫ではなく、アベルが殺された後に生まれたセツの子孫であるし、また南ユダ王国の先祖を辿れば兄エサウではなく弟ヤコブの子孫であり、長男ルペンではなく四番目のユダの子孫に属しているのだ。

そうした長子特権の神から離れた付随性について最も注意したい事柄には、「創世記」 48章20節も挙げられ、父イスラエル(ヤコブ)が兄マナセではなく弟エフライムを先に立てたことにある。それは恐らく、「すべての苦難を忘れること」 の兄ではなく、「悩みの地で豊かになること」 の弟(「創世記」 41章51-52節)の方を求めたためと考えられ、旧約聖書とは個人の苦悩を軽減させるために忘却を推奨する心理学ではなく、現在の苦境の中で全般的な社会の利益を求めようとする社会学もしくは歴史学なのだ。

単純に考えてみて、長子特権の社会的な浸透状況においては、同時に世代関係についても 「若者よりは長老に特権あり」 とする考えが促進されていると言える訳だが、南北分裂が生じる契機となった時代の南ユダ王国側のレハベアムは、長老側よりも若者側の意見を採用している(「列王紀上」 12章、「歴代志下」 10章)。それは長子特権や封建制度に頼りすぎることからの離反傾向を示す、「創世記」 のカインとアベル、エサウとヤコブ、マナセとエフライムなどと、脈々と流れている旧約聖書のテーマなのである。その最も長子特権や封建制度へ向けた改革主義の表現は、「ヨブ記」 32章のエリフに求めてもよかろう。


私は年若く、あなた方は年老いている。それゆえ、私ははばかって、私の意見を述べることをあえてしなかった。私は思った、「日を重ねた者が語るべきだ、年を積んだ者が知恵を教えるべきだ」 と。…… 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、歳を重ねた者、必ず道理をわきまえるのではない。ゆえに私は言う、「私に聞け、私もまた我が意見を述べよう」。


このエリフの表現を国家的単位で初めて浸透したのは、クロムウェルの独裁後の1660年、イギリスで起きた王政復古であろう。後の保守主義の父と呼ばれるバークの思想にしても、それは単純な改革派へ向けた保守主義からの説教ではなく、保守理念を踏まえた改革派の立場を擁護するエサウに近似したものであろう。旧約聖書とは、神を基軸としながら長子特権については世俗的な付録とした物語に仕上がっている。



では日本の長子特権は、どうだろうか?日本の場合は、1156年の保元の乱や1467年の応仁の乱に認められるように、長子特権が弱かったと思われる。応仁の乱とは長子特権派と反長子特権派に分かれたものではなく、鎌倉末期からの分割相続から長子とは限らない惣領の単独相続へと移行した地位争いだったらしい。そのため源氏と平氏という縦割り派閥闘争ではなく、保元の乱のような派閥内分裂による横割りの協力体制の分化の様相を示した対立である。

そんな応仁の乱後、やっと分国状況の中で分割相続の禁止と併用した長子単独相続の励行が進められ、長子特権の意識も強く定着して行ったと思われる。どちらが単独相続に適正かという武力闘争を減らすため、わかりやすい長子という基準が惣領として設定されたのだろう。またこの時期には、縁坐法、連坐法、喧嘩両成敗など、分国状況の中で内乱による自国衰退を避ける集団操作的な方策が生じ、庶民の間では当たり障りのない自己保身性をつくることとなる、相互自制化の優先が始まっている。

こうして見れば、ヘブライの旧約聖書に見られる長子特権の意識と、分国時代に強まったであろう日本の長子特権の意識は、大きく異なっていると言わざるおえないだろう。日本の長子特権の場合は、歴史文献の中に身内の争いごとを減らすための手段である点が察せられ、年長者を尊重しなければない理念は、慣習に適合させるための躾のような形で強制されるのであり、伝統的な宗教的世界観からの結果ではないのだ。そのためなのか、神道なり仏教の宗教的雰囲気がない教育的もしくは礼儀的な雰囲気なのであり、戦時中には修身という科目で上下関係を強く叩き込まなければならなかったのである。

比べて旧約聖書の場合は、長子特権がどんな動機や意図によって発生したかについての実際の歴史的状況についてはさほど示唆されることもなく、ただ世俗的に認められてきた状況から、次第に長子特権よりも優先される事件が顔を覗かせる物語構成となっている。つまり長子特権の上下関係とは漠然とした伝統であり、それよりも優先される事柄について議論をする領域を一神教世界観の中で保証している。たとえば、「アンネの日記」 に記された1943年6月13日の父オットーの手紙と、戦時期の日本とを比較して見るのもよいだろう。

また弟ヤコブは長子特権を買い、先に父イサクの祝福を受けて認められ、弟エフライムも祖父ヤコブによって先に立てられたと記されている。要するに古くから一神教世界観のもと、先代からの了承の方が長子特権よりも優先されていた旧約聖書なのであって、ユダヤ教に限らず旧約聖書を教典に含んでいたキリスト教も、長子特権を一神教の中で見る同時に世俗的な領域に属する事柄と判断しえたにちがいない。それは多かれ少なかれ、明治維新後の日本へも影響を及ぼした西欧文化の原型であったろう。



小難しい考察は、さておき、問題としたかったことは、ユングが命名したとされる 「カイン・コンプレックス」 についてである。要するにカインを兄弟間の競争心や嫉妬心で解説する心理学のお馬鹿加減を示すために、わざわざ社会的要因と言うか文化的要因を述べなければならなかった訳である。

実際のところ、少し考えれば、神やアベルがいる同じ場で反応していたカインであることぐらいはすぐわかりそうなのだが、その社会学的考察を全然しようとしないから、お馬鹿なのだ。そのカインコンプレックスについて心理学的に御解説しようとすること自体、一体、誰に聞いてもらいとお考えになっているのかを説明してもらいたいものだ。せめてカイン系の人間に聞いてもらいたいのか、それともアベル系の人間に聞いてもらいたいのか、あるいは御自身の立派な心理学解説の出来具合を神様に聞いてもらいたいのか、はっきりしてもらいたい。

まあ、カインが長子特権の理念に囲まれた文化環境にいたかどうかによっても大きく分析結果も変わるんだろうけれど、全くそういう文化論的な面に触れられていないから、彼らも心理学者と呼ばれるのに相応しい方々と言える。全く義務教育ぐらいの生活体験があれば、様々な生徒や教師たちの様々な理念のぶつかり合いあることが実感できるし、個人についての性格分析なんかも、そうした人々のぶつかり合いの際に見られる、各人が工夫を凝らした一つの手段に過ぎないと自覚できていてもよさそうなものである。

しかし自覚できていそうもない彼らの素振りから判断するならば、そんな社会的場についてわからない奴だったから心理学に夢中になってしまったのか、さもなくば義務教育の延長線で自身の言論の自由で戯れているとしか考えられない。あるいは教師が間抜けなことを言っても何の不利益を被らない、そんな社会的文化環境にある現実をこっそり発見したから、自分自身も等しく、間抜けなことを言っても不利益を被らない専門家という地位に目をつけて居座っているんだろう。

実際のところカインに限らず、現実の我々が暮らしている社会自体も様々な文化的理念によって囲まれているのであって、各個人個人も自分自身が抱いている理念のゆえに、社会的な文化的環境に左右されながら反応しているのである。つまり現在のカインコンプレックス論が浸透している社会的状況自体が、我々を囲んでいる文化的環境を作っているのだ。

まさに個人心理学理論とは、自らが文化的環境に入り込んでいながら、個人にズームインするような説明しかしていないであり、それは文化的環境を人々に覗かせないように注意しながら、自身が文化的環境の専門指導者として居座り続けようとする狙いすましを忍ばせている。まあ、心理学者さんもアベルさんたちに気に入られるよう理論づけなければ、自身の立場を保てないでしょうから、結局は個人分析にならざるおえないのでしょう。つまり心理学者自身は神様気分でアベルに有利になるように理論づけては、自身とアベルに限った 「人のため」 によって、カインを道具にしているということです。

さてカインコンプレックスを提唱したユングは、外向と内向、そして思考、感情、直観、感覚と分類しましたが、そのうち外向的思考型にダーウィンとキュヴィエ、内向的思考型にカントとニーチェを挙げている。ユングが言う外向的思考とは、自身の思考形態を知らないまま、近所から責められないことが最重要基準となった実証的アベル思考であり、内向的思考とは、自身と周辺の思考形態の差異から引き出される反駁的カイン思考なのである。

何やら反駁というと、他者の揚げ足取りばかりを狙いすましているように思われるかも知れないが、それは自身を含めた様々な人々の考え方の比較吟味という思考なのだ。コペルニクス的転回と自称したカントは、知識の表層部にあたる実証理論からその様々な実証理論を支えている深層部の思考形態を問題したと考えてよく、外向的なアベル思考とは、表層部でのお仲間同士のみで実証性を頼りとする考え方なのである。

ユング自身が行った思考とは、その外向と内向の分類に限れば、外向的であった。ユングは外へ向いているか内へ向いているかと考えていたようだが、実際は外へ向いているか内゚から゚向いているかである。

まあ、ちまたで語られるカインコンプレックス論などは結局のところ、内向的カイン思考の社会的進出を阻止しておきたいが、しかし人々へ向けてはそれを解説したいという思いに満ち満ちた、そんな外向的アベル思考たちによる囲い込み専門領域の確保に過ぎないのである。要するに、自文化中心主義の人々へ向かって布教されているアベルさん愛読のカインコンプレックス論と、自文化中心主義の改革を思案しながら頭を悩ませ複合体状態になってしまているカインが一緒に共存している、そんな世の中なのであります。

どうやら鯉のぽり評論家には、それぞれに降りかかる様々な風向きは見えず、みんなに平等に降りかかる風向きとしか見ないようですね。



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  1. 2011/05/05(木) 11:17:25|
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