思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

相対主義と一神教的世界観 ~金子みすず論~

現在テレビCMでは、金子みすずの詩が流されている。

こだまでしょうか?

いいえ、誰でも



そんな金子みすずの残した詩の中には、「みんなちがってみんないい」 と言う有名な一節が書き添えられた 「私と小鳥と鈴と」 という詩がある。それは人それぞれ異なっている個性の尊重なんかを訴えている点で、何やらSMAPが歌った2003年の 「世界に一つだけの花」 と似た響きが感じられる。おそらく彼女の詩の中でも、特に多くの人々にとって人気が高い一つに数えられるものであろう。しかしその人気状況にたいしては、及ばぬ身の私でありながら、水を差しておきたい。と言うのも、その部分的な人気の高さとなってしまうと、本来の彼女の世界観からは、むしろかけ離れた不調和な雰囲気が漂ってしまうからである。

我々は人それぞれ互いに異なっている現実について、それを一人一人の個性として尊重しようと心掛けたりする訳なのだが、しかし一体なにゆえに個性を尊重しようとしているのであろか?おそらくは、それぞれがそれぞれを互いに卑下し合っていたり、自分が優位につこうと努力している現実の争いにたいする、一つの衝突をさけるための改革理念になっているためであろう。

しかし金子みすずの場合には個性の尊重のみに留まらず、「みんなをすきに」 で記されているとおり 「世界にあるものはみんな、神様がお作りになったもの」 と、一神教的世界観が伺えるのである。当然、彼女は 「みんな」 と記していたのだから、自分自身も神様によって作られたものと思っていたにちがいない。それは鬼束ちひろの 「月光」、 I am God's child と半ば等しい見方にある。ただし、 「月光」 の場合は、この世に生み落とされた自分自身が目標を見失った心情を主題し、人それぞれの多様性について収拾できなくなった感じであるが、みすずの場合には一神教的世界観と共に多様性状況が組み合わされた落ち着きが伺える。

簡単にたとえてしまえば、金子みすずの詩には、 「月光」 と 「世界に一つだけの花」 が融合された気持ちにあるのだ。



多様性と一神教的世界観。それは一般的に相対性と絶対性の相反するものと解釈されがちな哲学的議論にも発展しかねないものでもある。たとえば日本文化は神道、仏教、キリスト教と色んな多様性を感受融合するものとして自負する相対主義が、一方の一神教的な宗教について 「他者の意見を聞かない自己信仰のみを主張する絶対主義である」 と判断してしまう立場が、その一例である。

まさに金子みすずの場合は、その一般的に相反してしまいがちな多様性と一神教的世界観を、いとも簡単に融合しているのである。キリスト教のように神様と人間の関係をこと細かく説得しようとする教義性ではなく、ただ存在するものすべてが神様によって作られたとする、創造のみに限定された一神教的世界観が示されているのだ。

彼女が 「みんなをすきに」 で意味していたこととは、自身が不快と思っている嫌いな他者について、その不快なる他者も自分と同じく神様によって作られた人間であると判断する世界観なのだ。すれば世の中の多様性とは、金子みすずから見れば神様が作った結果と見なされていたと言えるだろう。

では多様性(個性)の尊重に偏った立場から、一神教的世界観を傲慢と見てしまう相対主義的な考え方とは、どんなものだろうか。多様性への偏重にある相対主義とは、その一神教的世界観を抱いている人々について、自身と同じく彼らが同じ創造者(神様)によって作られたものとは考えもしないのである。そもそも神様を考えること自体を絶対主義的な傲慢と考えているからであるが、しかし多様性の現実について、それを自身の相対主義的世界観と論敵の一神教的世界観の双方の立場から比較考察を全くなされていないのである。つまり、ただ自らは多様性尊重だけを根拠としたまま、論敵を絶対主義と名付けてしまっているのであり、もともとの自らの根拠である多様性の尊重が持続して働いていないのである。

どのような手順で金子みすずがたどり着いたのかは定かではないが、一神教的世界観の中に人それぞれ多様である現実が含まれているのであり、人それぞれ多様である現実は一神教的世界観によって包まれているのだ。創造以外については特別に神様と人間の関係にはこだわっていない点で、みすずの世界観はスピノザの汎神論に類似した見方とみなして良いと思う。 「蜂と神さま」 や 「蓮と鶏」 も、同様であり、特に 「蓮と鶏」 は、アルチュール・ランボーの【我は他者なり】と重なる。

また彼女の 「不思議」 という詩を見るならば、人々が自身の抱いている常識に捕らわれていることについて触れられている点で、ソクラテスの 「無知の知」 のような人々が知識を抱いていることについての視座が獲得されていたと言えるだろう。それはデカルトからカントに至るまでの懐疑論、不可知論、物自体などの認識論と微妙に隣接した見解にあったことを意味する。「星とタンポポ」 に記されている 「見えぬけどあるんだよ」 においては、何やらカントの物自体と近似したものがあり、先の 「世界にあるものはみんな、神様がお作りになったもの」 が意味する、一神教的な世界観あるいはスピノザの汎神論と合わさって、漠然ながら両者が融合された世界観であったと言ってよい。



なるほど、人それぞれの多様性や一神教的世界観など不可知論さえも持ち合わせていた金子みすずなのだが、もっとも彼女の世界観の中で驚異なのは 「こころ」 である。その詩で示されていることとは、母は小さい私でいっぱいになっているので心が小さいが、私は大きい母でもいっぱいにならず、色んなことを思っていることについて記されている訳だが、それはかなり批判的な見方にあるものなのだ。

「批判」 と言うと、何やら人のあら探しやら、他者卑下の自己優越感の象徴と思う方々が居られようが、そもそも批判とは吟味である。通常、他者のやり方の欠如の指摘を批判と呼んでいる感じだが、ここでは人々の現実解釈についての内容吟味である。つまり、みすずは母の見方が小さいと吟味したのであり、また 「みんなちがって、みんないい」 と記していたみすずなのだが、その違いに大小がある点を示しているのだ。

まさに 「みんないい」 についての部分的に偏った人々の人気にたいして私が水を差したかった根拠が、ここにある。「アンネの日記」に見受けられるアンネが示した母親への批判も、みすずが示した母親についての吟味と同様なのだ。特にアンネの場合は、母親からなされる内容吟味されないアンネの自己主張についての非難にたいして、かなりの反抗的非難を示している(1943.4.2)。つまりアンネの側からしても、母親側が内容吟味に応じないから、自らも内容吟味で応じることができなくなるため、結局は母親非難の様相を帯びているのだ。またそうした衝突状況については、アンネの誕生日に送られた父親からの手紙にある、時に不本意でも広い心で見て従って欲しい(1943.6.13)といった見解も見受けられる訳だが、一方のみすずの 「こころ」 では、人それぞれの見方には大小がある点が、充分に現実認識として示されている。

つまり 「みんないい」 へ偏った相対主義的な人気とは、母親がアンネへ向けたような非難を生む原因を潜めているものであるが、実際のみすずの場合はと言えば、父親がアンネへ送った手紙の状況さえも充分に踏まえた 「こころ」 を残している訳である。さらに言っておくならば、偏った金子みすずの崇拝者たちは、本当に金子みすずを理解している者たちをも、自らの多様性の尊重を大切にするあまり非難してしまう可能性を秘めているのであり、あるいは逆に、多様性の尊重に徹しきれない自分自身を責めてしまうことにもなりかねないのである。

おそらく、これまでの説明では誤解される可能性がかなりありそうだが、問題は人それぞれの多様性についてのちがいにある。相対主義は自らが多様性を強調するあまり一神教的世界観に絶対主義的な傲慢性を見てしまうこと、あるいは一部の一神教的世界観を責め立てて、すべての一神教的世界観を否定したつもりになっているのだ。また相対主義は、一神教的世界観が勝手に神を前提しているように、自らも多様性の尊重を勝手に前提している点に気付いていない。



いずれにせよ、金子みすずの詩を総合して捉えるならば、それは相当に広く深い世界観にある。なにゆえに、一人でここまで多岐に渡るイメージを残せたのか、全く不思議である。聖書研究の影響があるのならばまだしも、その形跡は明らかでない。それに現在普及している社会学や心理学を改革していく要素も大いに含んだものであって、大学の心理学や社会学専攻の学部などにおいては必修項目に入れてもよいほどの価値がある。(私と小鳥と鈴と、不思議、星とタンポポ、みんなをすきに、蜂と神さま、蓮と鶏、つもった雪、こころ) 私が見る限り、現代の社会心理学は、まるで言葉で考えた理論のように思え、金子みすずのように言葉を包囲している世界観イメージの方へ立脚する必要があるように思える。

おおよそ彼女の方法とは、論理や思考が世界観やイメージによって包囲されていることを自覚していた結果であろう。人々の常識的な考え方とみすず自身の考え方の相違から、自らの世界観を作ったり自覚出来るようになって、それを詩として反映できたのだろう。単純に自身の受けた直観的な写実的認識からひらめいた結果ではなくして、人々が語っていることからの彼らの世界観洞察と、みすず自身の世界観自覚や構築が働いた結果なのである。また古今集のような古代日本文化よりは、むしろ近代西欧哲学に近い方法にあった金子みすずだと思われる。

それにしても、やがて金子みすずは世界的にも有名になることだろう。まずは手始めにスピノザやアンネ・フランクに縁があるオランダ語に翻訳して接触を試みるのがよいかも知れない。もちろん日本の側にしても、スピノザ研究を中心に西欧哲学史を進めておく必要があるが。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2011/03/27(日) 10:03:14|
  2. 現代思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<桜の木から見える風景 ~名の知れぬ花びら~ | ホーム | 津波と死刑判決と千羽鶴 ~生きているって、図々しい~>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/265-0673180d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。