思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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人間の意識について ~汎神論的歴史観、あるいは出来事主義~

現在は、やがて歴史となります。いや起きた現在は、即歴史となります。

たとえば過去の歴史を思えば、ある時代的かつある地域的考え方によって生活していた人々でありますが、現在の我々も例外ではありません。

つまり我々各人が、今現在思っている事柄とは、私自身が起こした思いなのではありません。歴史的連鎖で引き起こされた思いであり、各人に振り分けられた思いと言ってよい事柄なのです。

今日我々は、その度に出会う人々の様子を観察しながら何を言ったらよいかと考えている訳ですが、その出会ったこと、何を言おうか考えたことなどなど、すべて歴史的連鎖です。

そうした歴史的連鎖の必然性とは、一種の自由意志を否定したスピノザの汎神論的考え方と類似するものでしょう。

もちろん、そうした汎神論的な歴史観を抱くようになったのであるならば、そうした歴史観を抱くようになったこと自体も、歴史的必然性として感じられるようになります。

すれば人生の意義とは、もはや歴史的出来事の一つです。人生の意義を抱いている出来事自体が、歴史的連鎖から離れたことは、一度たりともないからです。つまり我々が人生の意義を考えたり、また人々と話し合ったりすることも、実は歴史的連鎖の中に含まれた出来事なのです。

もし、そうした汎神論的歴史意識が理解されるようになれば、知識社会学や知識歴史学の広大な領域が見えるようになるでしょう。

ヘーゲルの弁証法的止揚を基礎とした発展的歴史観の場合は、汎神論的見解だったとは言え、しかし歴史的連鎖として出来事を認識する意識までは達していませんでした。ヘーゲルの場合は、余計な 「発展」 の理念の方に気を奪われてしまったからです。

要約すること、汎神論的歴史観とは自分自身の考えていること、意識していることをも、持続的に歴史的出来事と捉え続けることにあるのです。それはデカルトの 「我思うゆえに我あり」 に近い意識状態と言ってもよいのですが、ただしデカルトは、その意識を持続しなかった点で汎神論的歴史観にありませんでした。

おそらく大半の方々は、自分の意識を持続的に歴史的出来事と見なすことで、一体、何の役に立つのかと疑問に思われることでしょう。

そこで汎神論的歴史観を【出来事主義】と命名しておくならば、人々が出来事を解釈することから離れた考え方をしていることで生じている議論と闘争の現実について、それを歴史的連鎖と解釈する出来事主義の立場が生じると言っておけるのです。

いやはや、これ以上難しいことについては説明しきれません。ただ、これから新たに生じてくるであろう心理学や社会学なども、そうした出来事主義の立場からなされるように運命づけられていると言えるくらいなのでしょう……



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  1. 2011/03/07(月) 05:49:26|
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