思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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シルシルミシル ~平成ナレーション史と明治文学史~

シルシルミシルのナレーションは面白い。それは夏目漱石の 「吾輩は猫である」 の系統にあるのだろうと思われる。では一体、何故面白いのか?その理由を探るためにも二つほどのナレーション変革の歴史を調べて、ナレーション論に仕上げてみたい。

一つ目はフジテレビの日曜アニメ 「ちびまる子ちゃん」 である。それはちょうど平成となったばかりの90年代の幕開けであった。舞台は70年代の静岡県である。私は静岡県を狸同士の騙し合い(狐なき民主主義)と考えているのだが、70年代の個性化の時代の中で、各々がそれぞれの個性によって学校社会に自分の出番を確保していたのだ。そして自分の出番確保が主題だったのであって、他者の出番確保の方法についてツッコミを入れることが許されていなかったのである。

そんな70年代のツッコミないまま流れてゆく、それぞれ各人のそれぞれ常識放射が織りなす風景にたいして、新たなツッコミ・ナレーションが添えられたのが 「ちびまる子ちゃん」 だったのだ。80年代の価値多様化から、漫才ブームのように、互いにそのスタイルにケチを付け付けられるようになり、ちびまる子ちゃんのツッコミ・ナレーションへ至ったのである。

二つ目のナレーション変革は、200年に始まったNHKの 「プロジェクトX」 である。それは従来のナレーションが全般的視聴者に向けた無難な常識風景の解説にあった状況下で、常識的見解から見て共有認知されていない出来事を紹介する写実主義的方法を採ったものであった。

明治維新後の日本文学で喩えるならば、「ちびまる子ちゃん」 は漱石の 「坊ちゃん」 であり、「プロジェクトX」 は坪内逍遥が従来の勧善懲悪の意図にたいして説いた写実主義にある。そして 「シルシルミシル」 は漱石の 「吾輩は猫である」 なのだ。



しかし実際の明治の経緯は、写実主義、猫、坊ちゃんと進み、平成ナレーション変革過程とは順序が異なっている。平成変革の場合は、坊ちゃんが先頭に踊り出た形なのである。それは80年代の多様化とその無意識な多様化状況について、新たな常識共有化認識が求められたのに比べて、明治維新後は新たな出来事認識が求められていたのである。80年代の場合は多様化された互いの出来事について充分に気にしていたのであって、新たな写実主義より各人それぞれの無知によって生じている多様化状況の共有認識化が求められたのだ。

そして 「プロジェクトX」 の写実主義とは、1997年に流行った 「なごみ系」、「ビジュアル系」、「複雑系」 という分類思考が強化された結果であろう。ちびまる子ちゃんのナレーション意識も時が経てば各個人にも浸透したために、「~系」 が話されるようになったのであり、同時に人々の共有多様観を頼りに各人がその一つのキャラクターによって社会参入する意識も浸透したのである。そして各個人の常識的に共有された多様社会観の恒常化が強化された状況にたいして、その認識領域外の歴史的個人の状況を示すために写実主義の方法が生じたのである。もし従来のナレーション形態であったならば、年寄りの若者へ向けた説教番組として注目されることはなかったであろう。「自分で自分をほめたい」96 は周囲から期待されたための努力や周囲に認められるための努力を離れた。つまり従来の努力観のための期待を離れたのだ。その結果、テレビに自らの努力観を通して感激する世代にアンチテーゼを示したのであり、「プロジェクトX」 の写実主義的なナレーションへつながった。



そうしたナレーションに比べて、シルシルミシルのナレーションは一体何が異なるのか?一番の特徴は新しい物の見方の恒常化を目指していないことにある。ちびまる子ちゃんは新たな人それぞれのうっかり加減の共有認識を、プロジェクトXは新たな人それぞれの隠れた試行錯誤の共有認識を浸透させたのだが、シルシルミシルのナレーションには共有認識の恒常化が掴めそうで掴めない領域にある。もし共有化を目指している領域があるとするならば、それは広く浸透している常識圧力にさらされている個人状況なのである。しかし常識から離れた各個人の領域であるために、もともと共有認識としての常識化にはなりにくいものなのだ。つまり人間界には到底浸透しえない 「吾輩は猫である」 からのナレーションである。

恐らく、他番組がシルシルミシルの面白さを真似てみたところで、そう簡単にはうまくはいかないだろう。むしろ真似ることによって、そのウケることを計算した姑息さを自ら露出する結果になる。(その露出がどれだけの視聴者がわかるのかは定かでないが)

そもそもシルシルミシルのナレーションには相当深い社会なり政治なりについての洞察や理解が含まれているのだ。別に新たな笑いのツボを発見した結果ではなく、世の中の仕組みを見た上で、真剣に訴えようにも方法がなく、自らも惚けながら社会を生きていこうと開き直った批判精神を含んでいるのだ。ちょい悪親父とは真面目にやっていたら自らが馬鹿を見る現代社会だと考え、ちょい悪で生きていくのと同じ系統なのである。

ちょい悪親父は、ちょい悪が人々の人気を得れるから、ちょい悪を演じ始めたのではない。自分のちょい悪にケチを付けれるのならば、世の中の悪さ加減にも気付けと振る舞ったのが最初の動機なのである。シルシルミシルからすれば、人を馬鹿にしていると思うならば、世の中の人を馬鹿にして安楽椅子を獲得している状況についても気付けである。ある意味 「電波少年」 のやり方と似ていると思われるかも知れないが、電波少年の場合は、現与党にたいする不満を利用した野党の左翼的批判や権威的評論コメンテーターに過ぎなかった。

しかし2000年以降は田中康夫知事、小泉内閣、東国原知事、橋下徹知事と政治界の動向が広く関心を集める時代となり、単純な野党支持を集めて先頭に立った 与党茶かし なのではない。むしろ誰もが好き勝手に批評し合っていることへの批判なのである。その各勢力の好き勝手な批評言明を風刺し真似て、その様子の認識共有化を求めているようなものなのである。

もはやビートたけし、松本人志、太田光の行った(過去形である)社会風刺を超えたものがあり、オードリー春日のボケたツッコミと同系列にある。ナレーションへの上田晋也や設楽統の絡みについては、相方のオードリー若林に似た役割があると言ったところか。

シルシルナレーションは、あらかじめ突っ込まれることを前提とした無礼を働き、あらかじめ用意された反省を示すことにある。しかしその無礼は、従来の 「お笑いなんだから」 的な企画者側の企画側利益による他者道具化ではなく、一般社会において様々に規範と無礼が解釈されている正当化状況についての認識を共有化させようとすることの方にあるのだ。それは裏を返せば、無礼を利用して自己進出を確立している者への風刺と批判であるし、批判を受けた際には適当に謝っておけばよいとする反省上手への風刺批判なのである。またたいていの風刺とは、ろくに知りもしない者たちを味方につけた特定他者の成敗であるが、シルシルナレーションの風刺の場合は、そんな知らない者の利用も避けたスゴ技が潜んでいるのである。



シルシルナレーションは、いつまで続くであろうか?別に今日の人々を楽しませるだけの番組ではない。後々の将来において、卓越した政治家、社会学者、あるいは人文関係の人物を輩出する基盤を築いたものであろう。つまり日本文化においてシルシルミナレーションを面白いと思う人々がいると示したことで、新たな活動を目指す人々の参考資料になっているのである。シルシルナレーションには、ただ企業紹介という面ではなく、言葉のやり取りがなされている全般的社会状況を踏まえた、全く目立たない社会派意識が横たわっている。多分、自己啓発お馬鹿や事情通に自尊心を持ってしまった者には、わかるまい。



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  1. 2011/02/07(月) 21:54:56|
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