思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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熊本県 もっこす観察力 ~個人技への自尊心~

熊本県の特質を表す 「肥後もっこす」 と言うものは、誰が名付けたか青森県の 「津軽じょっぱり」 や高知県の 「土佐いごっそう」 と共に、日本三大頑固の一つに数えられているものらしい。

青森県と言えば、太宰治、淡谷のり子、ナンシー関のように 「独りでも行く」 という気迫やら世界観やらで世の人々を見つめた頑固さが感じられ、まるで津軽三味線の音に、琵琶法師の祇園精舎の鐘の音に包まれた個人個人の内に潜む観照を見てしまった結果のように思えるものだ。

しかし熊本県には津軽のように凡人性や俗物性についてのご意見番的批評は発展せず、津軽の 「独りでも行く」 よりも、むしろ周囲の人々の仕方なく流されてしまうことの苦境感情から期待されるであろう、そんな周囲に流されない不動性なのである。たとえば天草四郎とは、現状の封建的な理屈によって流されてしまう人々の苦境感情から、キリスト教的理念によって周囲の圧力に流されない個人個人による社会理想像を期待した結果と考えられる。つまり流されてしまう追従勢力にたいしての追従を拒む不動性が もっこす であって、両者の二分化状況を眺めながら解釈する文化にあると言える。

すれば天草四郎によるキリスト教への回心は、社会状況を離れたキリスト教への心酔ではない。現行社会体制にたいする改新社会像が伴った回心であったと見なければならないだろう。また明治の熊本バンド同志社英学校への参加にしても、個人的な宗教的信仰、あるいはキリスト教の宣教師的普及ではない、キリスト教と社会観が合わさった現行社会改革の視座があった結果である。

そんな自身の不動性を基準とした現状社会についての熊本県的な観察力は、現在活躍している上田晋也にも認めてよいだろう。隣の鹿児島県出身の長渕剛を敬愛する上田にとっては、おそらく長渕の 「とんぼ」88 の"知らん顔したまま そのまま突っ立っている東京"に、現状社会における流されている人々と自分自身を感じているのだろう。彼の素早いツッコミは、ある種の周囲に流されない自己視座の不動的立ち位置の経験から生じたものである。比べること、似たような素早いツッコミにある兵庫県出身の名倉潤の場合は、どちらかと言えば、もっと学園祭的な司会進行役の庶民派の傾向にある。

上田晋也と有田哲平のコンビ性については、熊本県の個人技的傾向が現れてもいる。とんねるず、ダウンタウン、爆笑問題などは、ゲストに気を使わせながら自らのコンビ自身の安全地帯を作る秘技を用いて勢力を広げてきたが、しかし くり~むしちゅ~ の場合は、上田の肥後もっこすのために、ゲストとコンビの並列化を保ってきている。騒ぎ立て三大コンビの場合は、片方がゲストに無礼作戦を仕掛けて、まるで第三者のような雰囲気で横から絡んだり、さもなくばゲストに許してやって下さいと示しながら、その示すこと自体を続けることで自己舞台の常識化につなげてきたのである。たとえるならば、「そんなことは言うんじゃありませよん。失礼でしょ!」 というパターンをあらかじめ設定して置きながら、ゲストにたいしてその失礼を子供に言わせておいて、意図的な微笑みを見せる母親みたいな方法を繰り返してきたのだ。それは 「笑っていいとも」 のテレフォンショッキングにおける、タモリと観客席に挟まれたゲストという構図や、芸能レポーターと全般的視聴者に挟まれた芸能人という構図を参考とし応用発展させた、部分的な選抜多数を利用する全般的常識化の効果であった。

80年代の漫才ブームから生じた意識変化についてわからない人々には難しいかも知れないが、上田晋也のゲストいじりにはコンビ体制を守るためのゲストいじりはないし、そのゲストいじりによるコンビの安全地帯確保の秘技で微笑むような真似はしない。彼の場合は騒ぎ立て三大コンビとちがって、彼自身の個人的な理念からいじるのであって、相方を味方につけた囲い込みによるいじりはない。上田が長渕ファンを自称するのはもっともであり、長渕も彼に影響を与えれたことに快く思っていることだろう。



同じくお笑い界としては、モノマネ芸人のコロッケも熊本県出身だが、特に彼の場合は70年代の光のどけき春に向かって自分をアピールしている歌手の様子を真似ていたと言えるものであって、周囲に流されまいとする もっこす の不動性から観察工夫された結果と思われる。


なるほど、「肥後もっこす」 が男性に限って当てはまるものたいして、女性については 「火の国の女」 と呼ばれるほどらしい。それは熊本県出身の石川さゆり 「天城越え」86 の燃える山に代表されてよいものなのだろう。同じく日本三大頑固に属する青森県の 「津軽海峡 冬景色」77 が彼女の持ち歌になったことも不思議である。熊本県女性は頑固な男性社会の動向を見て燃えると考えざる負えない。

八代亜紀が唄う 「舟唄」79 を含めて 「天城越え」 には、嫉妬や虚栄心よりは見ていることの自尊心に燃えている感じである。それは彼が他の女性へ流れていったことにたいして、自身の卓見の自尊心から、自分の元へ呼び戻そうとするような情熱であって、独りの取り残された女性の嫉妬心や待ち焦がれではないのだ。つまり慎ましき女性の嫉妬心を歌うよりも、その慎ましさをいいことに流れ行く状況へ向けた監視的な自尊心なのである。熊本県の燃える女性とは、たとえ嫉妬心を歌うにしても、独りの女心というより、嫉妬が渦巻いている社会を歌う。

そのように考えれば、「365歩のマーチ」68 の水前寺清子や 「気分爽快」94 の森高千里も、彼女らと同じ熊本県的特質にあると言える。その自身の社会観を駆使して人々に呼び掛けるあたりは、やはり 「舟唄」 や 「天城越え」 と同じ社会観の前提にあろう。おそらく彼女らは自身の化粧に虚栄心はない。むしろ自身が見ていることに自尊心を持っているのであって、人々が化粧に注視している様子を見て演じる。

また宮崎美子の 「今の君はピカピカに光って」80 の曲に合わせれた、人目を気にしながらジーパンを脱いで水着になる光景の演技も、自身が隠れていることに注視している視聴者の状況を想定してなされた演技であって、何か自身が隠れていることの社会的位置が、日常的にしっかりと位置づけられていた結果と思われる。熊本県女性は素顔を隠すための化粧ではなく、隠れた社会観から工夫される素顔と化粧なのである。

よくわからないが熊本県出身の女性芸能人を見る限り、気遣いに自尊心を持つよりは、社会観の方に自尊心を持った気遣いにあるためだろうか、過度の出しゃばりや過度の上品に偏ることが少ない感じである。

あと男女問わずに感じるのは、各個人個人が持つ社会観に自尊心が絡む傾向があり、自身や身内の自己工夫に役立つに留まり、その共有化への意志に不足した個人技が強くなっている感じがする。



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  1. 2011/01/24(月) 19:12:49|
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