思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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静岡県 空使いの鑑定人 ~狐さんがいない民主主義~

静岡県の県民性とは、女性は気が強く、男性は優柔不断の傾向にあるらしい。実際、まる子ちゃん一家をサンプルに考えてもよいのだろうか?お母様とお姉様の家庭内をしきる数々に、お婆ちゃんの言葉少なき余裕も合わせて、なるほど女系政権の証拠に挙げられるのに比べ、父ヒロシと祖父友蔵には古き父なる威厳のかけらさえ伺えない。また当のまる子ちゃんはどうかと言えば、女系政権に属しているよりは男系の駄目人間の側に共感を感じるのだろうか、友蔵を敬愛するに至り、父ヒロシについては軽蔑しながらも争えない血を感じてしまう特殊な位置関係に追い込まれている。

さくら一家の一件で静岡県民をひとくくりに語ることの御不満は別の機会にお願いするとして、静岡県の女性優位の傾向に感じられるのは、神社に潜んでいそうな白狐の不在である。やはり女性が口うるさく日常生活を仕切ってしまうと、古き神様の使いである白狐や雪女のような、控えめな身のこなしに潜む得体のわからない視線を感じることが出来なくなるのである。

実際のところ、静岡県には 「狐がついた幸助」 という昔話があって、狐さんが幸助に取り憑いて語るには、それは秋田県の髪剃り狐のような人間に向けた監視的な戒めの視線ではなく、人間に忘れないでもらいたい願い出の形にあるのだ。簡略化すれば、つまり狐さんは恐ろしい監視役ではなく、可愛い守り神なのであり、狐さんにたいして緊張関係にない静岡県と言える。

要するに、静岡県では狐と狸の騙し合いは許されない。静岡県の基本は狸同士の騙し合いでなければならず、もし狐が現れた場合には、その狸同士の騙し合いを中断してまでも狸同士は団結するのである。静岡県では狸同士の騙し合いによって互いに成長していくのがルールであり、狐さんのような鼻を高めにしたシャープな騙し方はルール違反として警告を受けるのだろう。

そんな事情は 「ちびまる子ちゃん」 の主題歌 「おどるポンポコリン」 の狸の腹鼓に認められるとおりで、和尚さんと狸さんの競演物語と解釈してもよいかも知れない。社会秩序維持のために仕切る女系勢力に、それにあたふたと自己保身の技に忙しい狸さんがいて、和尚さんの教えに即したナレーション突っ込みが散りばめられるのであろう。それが可能になるためにも、狐さん的な突っ込みが登場してはならない事情がわかる気がしてくる訳である。



さて静岡県に独特な方言には、"知らんぷり"や"とぼけっぷり"を意味する 「空を使う」 があるらしい。標準語では 「知ったか振り」 に合わせた 「知らん振り」 のように"振り"が用いられているのに比べて、静岡県では目的語の"~を"を伴った他動詞"使う"を用いているのだ。

それは本音隠しに用いられる建て前の"振り"意識を減少化させる働きを持つ。本音の前に建てられた建て前を振るのではなく、社会的な場の空間に向けて空を使うのであり、本音隠しの【砂埃の振りまき】ではなく、社会的将棋盤への【効果を狙った一手】なのである。すれば、さくら家の父ヒロシや祖父友蔵の技とは本音隠しではなく、攻め寄ってきた圧力にたいする攻防の一手一手なのだ。

お隣の愛知県を見れば、あみんの 「待つわ」82 のように"かわいい振りしてあの娘 割とやるもんだねと"と言われることに苦心をしているが、静岡県の後にピンクレディーとしてデビューすることとなる二人は、「スター誕生」 のオーディションにおいて、すでに見られるイメージを意図的に工夫していたと伝えられている。またオーディション曲には 「部屋を出てください」 という、かなりマイナーな曲を選んだのであるが、やはり静岡県女性の意思表示傾向に即した選曲と見なしてもよいのかも知れない。

愛知県では振りを指摘する人々と振りを指摘される人々に分化された状態で、秋田県では互いに 「えふりこき」 と指摘し指摘され合う間柄であるが、静岡県では 「空使い」 の狸同士の騙し合い舞台のようである。全く秋田県が"振り"についての評価基準を共有しながら神の使いである狐の監視に囲まれた雰囲気にあるのに比べて、静岡県では"振り"ではなく"使い"の方を評価基準にし、神の使いである狐の監視はないまま、それぞれが狸として行動する状態である点で対称的だ。

そして静岡県の独特な空間認識については、"せいせいする"を意味する方言 「ごせっぽい」 に認めてもよさそうである。多分、「御所っぽい」 が語源だと思われるが、そもそも 「~ぽい」 とは自身に関する事柄にではなく他者についての命名に使われる傾向にある用法なのである。自身を卑下気味に 「私は飽きっぽい性格である」 と表現する場合があるが、自己賞賛的な 「私は色っぽいです」 の場合はツッコミを期待した自惚れの演技となってしまうだろう。

つまり 「ごせっぽい」 は自分の状態を表していると言うよりは、自分の居る場所の雰囲気を表していると考えた方がよいのだ。晴れ晴れとしたような自分の気持ちを表しているのではなく、晴れ晴れとした後の風景描写のような気がする。戦後間もない静岡県出身の加藤省吾による作詞、「みかんの花咲く丘」46 を聞いてみるならば、その情景描写に重きが置かれているがわかるだろう。

静岡県は個人個人を切り離して物事を見ず、雰囲気に包まれた個人として見るのであろう。はないちもんめの遊びについて静岡県の場合は、相談することに限らず 「丸くなって」 と仲間同士の輪作りをわざわざ表現しながら 「あっかんべ」 と相手側に自分たちの秘密の空間を訴えたいのである。すれば 「ごせっぽい」 も気持ちの共感ではなく、情景の共感を求めた表現と言えそうである。



こうして見れば、静岡県は和尚さんが仕切る狸同士の楽しい空間舞台のようだ。しかし神の使いである狐さんの監視に気付かない点においては、平穏無事からはみ出した領域への前進や狐さんの影の御苦労については無関心なままとなろう。まるで清水次郎長に象徴される義理人情が狸同士のルールであり、義理人情なき狐さんを追いやってしまったような形である。

そんな狸さん達の平穏無事を見守りながらも、隠れた狐さんの不意打ちを警戒する深さを持ち合わせた人物と言えば、よくわからないが古い鶴田浩二や三國連太郎(生まれは群馬県)なのだろうと、勝手に思っておきたい。



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  1. 2011/01/19(水) 20:29:24|
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