思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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死刑廃止論 ある根拠 ~キリスト教理念と独立自尊~

ビートたけしの仕切る番組で死刑廃止論の是非について討論していた。そこでおいらは現行死刑執行状況にたいする改革という立場から死刑廃止論の側につきたい。

番組で示されていた地図をざっと見ていたら、世界史で学んだ主要キリスト教地域はアメリカを除いてほとんどラテンカトリック側の西欧諸国の他、ギリシャ正教側のロシアも死刑廃止国であった。詳しいことはよく知らないが、キリスト教と言えば自殺も罪と考えられていた時代や地域があったところである。つまり神の前での生存の意味が残されていたがゆえに、全体社会の中における個々人の生存の意味を共有化しえたところなであろう。

一方、日本の保守側意識の場合は、被害者および被害者家族の意識を主題として死刑廃止論に反対している。犯罪抑止力も反対理由に挙げられることもあるが、今や死刑にたいする恐怖心を犯罪者の供述に広く感じられなくなっている状況にあると思う。被害者および被害者家族のための死刑執行には全体社会内の生存についての意識が欠落している。では残された犯罪者の生存は何か?殺人犯の殺し得であろうか?

私は死刑廃止論反対の動機に【殺人犯の殺し得】が大きく関係していると見る。その"殺し得と思う奴らが死刑廃止によってのさばり始める"と思いが生じ、そして今後についての恐怖心が生じて来るのだ。犯罪者には犯罪者特有の境遇があったとする死刑廃止論者の意見にたいして、犯罪被害者側についての無頓着を感じる人々もいるだろう。しかし犯罪被害者を思う死刑廃止論反対側にも犯罪者にたいする無頓着だけではなく、犯罪被害者についての無頓着があるのだ。

反対論者は犯罪被害者側の意見を拾って訴えてはいるが、松本サリン事件の、はじめ犯人扱いさえされた河野義行氏については語らない。死刑を望むのがすべての被害者側ではない。つまり犯罪者の不幸な境遇を考慮しろと言うことだけではない、河野氏のような社会観の推進普及意識を考慮しろと言うことだ。"伝統的に社会観の推進普及の意識がない"から、犯罪被害者側も自然と"死刑執行を望む発言をする"と言った、伝統的意識と死刑廃止反対論との循環支え合い意識構造があるのであり、その伝統的意識構造自体にも少なからず犯罪発生の要因があるのである。

犯罪被害者は犯罪者について怨恨を語るが、犯罪者を生んだであろう境遇背景にたいして怨恨を訴えない。河野氏のマスコミ批判は社会観ある対応であったが、なおも論壇者たちはその意味を拾わない。一般の犯罪被害者の意見だけを拾って死刑廃止論に反対している。我々は広く共有しながら松本サリン事件の報道から何も学んでなんていない。生ぬるい評論家仲間同士で反省するふりした問題点論議をしただけで、時が経てば相変わらず大衆受けのズームイン解説なのだ。もはやオウム真理教がいたから松本サリン事件が起きたと言うよりは、むしろ【間抜けなマスコミ報道や解説者たちがまかり通る社会だったから、オウム真理教のような集団が出来た】と過激にも喩えておこう。

全く私には、論壇的に被害者側の感情を持ち出して語られる、死刑廃止にたいする反対意見には、何か天下り官僚的説明が感じられて仕方がない。自身の天下りが社会に与えていることについての論点を避け、ただ自らの社会的貢献の自理論だけを説明しながら一生懸命に自分の仕事を守ろうとするように、死刑執行による社会的影響には触れず、ただ被害者側の感情を持ち出して自らの仕事になっているからだ。どちらも社会的な責務が求められる立場にありながら、社会全体の現実理解への議論へは進めず、ただ自らの思う社会的貢献あるいは社会秩序の必要性から話をするだけなのである。彼らは河野氏の仕事を未だに見ていない。しかし被害者であった河野氏が同席となると、そうはいかないだろう。同席となれば穏やかそうに聞き手にまわり、時間が過ぎるのを待つのだろう。彼らは社会的論壇の立場を職業名にしながら、河野氏が活動したことの理解をせずに、自身の社会平穏論を堂々と語るだけなのである。三宅久之、大谷昭宏、勝谷誠彦の恐縮なき逞しさがまかり通ることが、まさに大衆意識の現状日本の象徴なのである。被害者感情への同情の方が、まだまだ強く、人々と話を合わせるのに都合がよい世の中のようだ。

しかし死刑廃止論の根拠に、犯罪者の人権を置くのには少々疑問がある。法を冒し、刑に服する義務があると見なされる中、法の社会秩序理念のゆえ、社会秩序のための刑と考え直す必要がある。死刑の場合は犯罪者側のみの制裁だけに社会秩序を求めているが、そうではなく、「法さえ従っていればよい」とする意識にも新たな社会秩序理念が働くようにすること、それを死刑廃止の理念に含めた方がよいだろう。



ただし即、死刑廃止へ向かうのは危険である。死刑廃止論の議論により、ある程度の社会観浸透が必要となる。さもなくば犯罪者に"殺し得"を人々が感じてしまうからである。決して犯罪者が"殺し得"を思うことが問題なのではない。人々が殺し得を感じてヤキモキすることが問題なのだ。犯罪者とは自身が社会から受けるヤキモキを意識しながら、人々がヤキモキすることに快感を感じようと犯罪行為へ向かう、そんな時代的傾向にあるからである。保守的論客とは、その大衆的社会観の欠如のゆえの急進的死刑廃止を危惧するべきなのですが、まだまだ死刑廃止自体を阻止するような保守主義が幅を利かせている日本なのです。

思えば、1985年の豊田商事永野会長刺殺事件の報道が、おそらく公正社会理念のために実行された殺害事件の最後であろう。それ以降は、一般人には理解し難く、味方を必要としないような犯罪形態となった時代なのだ。それは自身の行く末などはどうでもよく、自身のヤキモキを人々のヤキモキへ残すことが唯一の目的となった時代と言える。古畑任三郎に暴かれた犯人が、理解した者に捕まったことに光栄さえ感じるのは、そんな犯罪者意識の一側面を表していたと思われる。

まあ、私が言いたいことは、松本サリン事件の河野義行氏が、かの立場でかの発言らをしたことについて、人々はどう思っていたかと言うことだ。単純に被害者感情を持ち出す者、また死刑執行を訴えている被害者家族も含めて、是非お聞きしたいところだ。「あなたは被害者の立場にないから、そんなことを言える」と言うかも知れない。ならば「あなたは被害者だからそんなことが言える」と反論しておこう。あるいは被害者感情に味方して死刑を訴えてくれる人々に感謝するのだろうか?と問いたい。味方をする人々は被害者感情なんかには味方していない。犯罪の理由を考えない独立自尊の利益集団なのである。犯罪者について考えていない点を外したとしても、なお河野氏のことを考えずに議論している点で、全体社会を見ながら発言して来たとは言えない方々である。

「同じ悲しみを繰り返さないで欲しい」と語る人々の方が、自身が被害に遭う以前から、あらゆる事件などを見ながら、人には色んな人生や事情があることを思って来た人々であろう。ブルーハーツの 「チェインギャング」 が何を歌っていたか、わかる奴にはわかると言ったところだ。キリストを殺した人間の罪とは、生きていくために必要な自己工夫と犯罪成敗にもあり、その犯罪の要因に自身が含まれていることを意味する。

アメリカ以外のキリスト教圏内で死刑廃止が進んだのは、【個人個人が社会へ与えている影響】を共有理念に少なからず含んでいたからであろう。また自然に関する環境問題だけではなく、犯罪という社会に関しても環境問題意識があると言ったところかも知れない。そんな意識が促進されれば、政府の外交意識も国民側の意識と共に上がると言うものだ。

別に政府は弱腰なんかではない。「弱腰」と言っている国民意識が足を引っ張っていることに気付かない。犯罪者を小突くように政府を小突く、そんな他者を小突いて喜びを感じる馬鹿と阿呆がいるのだ。その社会的影響なんかわからない「言論の自由」の達人たちである。まともな政府批判ができない人々だから、「弱腰」と見える政府なのである。まともな批判が出来れば、そこを頼りに新たな政治家の台頭契機になるのだが、阿呆な「弱腰」批判が主流なので、訳もわからない漠然とした「毅然とした態度」の理想だけしか新規政治家の台頭の余地がないのである。きっとその「毅然」を真に受けて実践すれば、「要領が悪い」と小突く癖してね。日本人は小突かないと人は動かないと思っているので、互いに小突き合うのが必要なんだろう。

全く生きていくための"自己工夫"、"独立自尊"、"自己責任"が犯罪を生む要因に加わっているのだ。我々人間とは競争しなければ、怠ける奴らの天国になってしまうと考え、競争原理を支持しているのかも知れない。しかし今や、その競争原理と社会的協力についての説明の仕方自体が、達人たちの覗き見的になされる競争原理の勝負所となっているのである。



まあ、いいだろう。やがて恵まれた死刑廃止にたいする反対論者の子供の中からは、犯罪者側の真実を見てしまう者も現れることだろう。反対論者は「親心、子知らず」と思いながら子供と争うだろう。しかし犯罪者までを含めた社会観にある子供の心について、親知らずだったと知る時期は、一部の者に限られている。自分に降りかかるまでは他人事と見て、もし降りかかってしまったら、「悪いことをしていないのに、何で?」と訴える、そんな気持ちの持ち方が人間らしくてよい。

おそらく来年は、ちょっとした親鸞の他力本願やら悪人正機説が話題になるかも知れない。しかし私から見れば、悪人とは自分以外の過去の悪人たちを思うことで救われるだ。自力本願か他力本願かの自己位置も大事なんだろうが、自分の社会の見方が社会に与えている影響についても是非考え始めてもらいたいが、まあ~無理だろう。せいぜい自力本願的な競争社会に苦言を少々、って言ったところだろう。

全く外国から見る日本について考えようとする人間は、日本では相手にされないね。 「日本は日本」 と語った方が、信頼されて金になる。日本の死刑制度について諸外国から廃止の要請圧力がかかっていることには、気付いていないのが逞しい。坂本龍馬ブームに酔いながら、しかも海外事情を考えずに死刑廃止論に反対しているのを見ると笑える。坂本龍馬好きよりは犯罪者の方が、坂本龍馬のこと、わかるんじゃないかな?



あ~、やや、やばい記述だったかも知れないが、仕方がない。誰かが言わなければならないこと、あるいは誰かが叩かれなければならないことと、ポジティブで前向きな自分気分で書き残すことにした。

文化的背景のちがい



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  1. 2010/12/30(木) 12:20:06|
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