思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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日本語の清音と濁音 ~ちょいズレ言語学~

「日本語の音イメージ」 が意味することとは、文字通り、日本語が発せられた、その日本語の音についてのイメージのことである。しかしここで問題としたいこととは、他の外国語の音と日本語の音とを、それぞれ聞き比べてみるような【発音形態】のことではなく、たとえば [清音・濁音] と分類する日本語を使用していることによって生じているだろう、そんな音イメージとつながった【世界観体系】のこととなります。日本では和製英語 「イメージ・チェンジ」 が浸透しているように、一般的他者が抱く【個人についての表象】を"イメージ"と捉える傾向があるために混同しやすくなりますが、そうではなく、外界対象を解釈する際に基調とされている【解釈者側の現実観】を支えている、外界他者のそれぞれの個性を分類解釈するところの元となっている¨分類イメージ体系自体の特質¨のことを意味します。

実際、 [清音・濁音] の分類を調べて見れば、それは日本語体系に限定された独特な分類、あるいは少なくとも万国に共通した分類ではないことがわかります。実際のところ他言語の場合は、たいてい [無声・有声] の分類にあると言ってよいでしょう。

確かに中国語にも [清音・濁音] の分類が認められる (日本語の清濁分類も、漢字導入の際に応用されのだろうか?) 訳ですが、ただし日本語の場合は、カ行サ行タ行ハ行にたいしてガ行ザ行ダ行バ行と、文字表記の面からしても濁点の有無がなされた点で、相当に強固な [清音・濁音] の分類にあります。そうした文字表記が合わさった伝承によって現在まで続いている日本の [清音・濁音] の分類イメージとは、順次人々が死んでは生まれて来る歴史の繰り返しの中、諸外国とは異なった物の見方を共有維持して来たと言えるのです。



では、その日本語に独特であろう [清音・濁音] の音イメージが、他の現実観イメージとどのように関連してきたかと言う問題に移りましょう。

まずは簡単に言ってしまえば、それは"理想の清音"にたいして"現実の濁音"が対比されたイメージと喩えられます。ただし、それは清音にはきれいな理想を見て、濁音には汚れた現実を見ていると言うことではなく、肝心なのは【 [清・濁] の分類イメージが一人一人に刻まれること】です。と言うのも、社会的にその分類イメージが共有化され、かつ各個人がその社会的共有化の中に立たされていることこそが重要な事柄なのである。全くここでは、個々の事柄が清濁のどちらに分類されているのかと言った事柄を細かく見ては、その理想観と現実観をそれぞれ詳しく追究していくことが重要なのではなく、ただ [清音・濁音]と [理想・現実] がそれぞれ分類イメージとして共振し合っているであろう点が問題とされるのです。

たとえば金容雲の 「韓国人と日本人」1983 では、人が死ぬと 「仏になった」 と喩える、"死人=仏"の理念とは、日本独特のものであろうと推測されています。 "ほとけ" とは "ほどける" という動詞に由来するという噂から、それが本来の修業を積んだ超越者(生存者がなす解脱)の意味ではなく、万民の煩わしい現世からの解放を意味する日本独自に加工された世界観であろうと記されている。(日本の"ほどける"にたいして、韓国では"恨を結晶させる"と対比している)

おそらく金容雲が記したとおり "死人=仏" は、日本独特のものであり、そしてそれは [清・濁] の分類図式にも共振した世界観と言えそうである。

決して日本に限ったことではないかも知れないが、現世を生きていくには、第一に、濁が必要と考えられているのだろう。しかし日本の [清・濁] の場合は独自の考えが働いているのだろうか、濁は現世を生きている人々にのみ当て嵌められているのである。確かに殺人犯の死刑にたいしては被害家族らは何らかの思いを依然と残すとは言え、どんな極悪非道な人々にも死人となれば仏と見る解釈パターンが、全般的に共有されている日本だと思われる。全く濁とは生きていくためには必要とならざる負えないものであるが、さらに裏を返せば、死人の場合には、もう濁を行う必要がない存在であるため仏に見える訳である。仏像や阿弥陀如来像などの穏やかな顔が仏の象徴であり、死人となれば誰もがみんな穏やかな仏顔なのである。

つまり憎き者も死人となれば、清くなる訳ではないが、仏になるのだ。裏を返せば、憎く感じるのは狙いすましたあの視線("あの"がどこを指すかは、各人で確かめて欲しい)であり、亡き後はその視線もなくなり仏様の穏やかなお顔となる訳である。要するに濁とは、生きてる人限定の事柄であって、憎き者の濁も生きていくための一つの濁だったと、その詳しい事情がわからなくとも、何らかの事情があったものと解釈されるのである。日本の全般的な世界観では、悪とは後天的な産物であり性善説なのだ。昔はよく聞かれた 「綺麗事では済まない」 とは、その生きていくための濁の必要性と性善説の両方が組み合わさった一つの日本的表現であろう。

実際のところ、ある事柄は議論吟味されることなく簡単に 「綺麗事では済まない」 とそっちのけにされる中、 「綺麗事では済まない」 の言明の方は見事なままに済まされて行く、そんな日本の状況なので、 「綺麗事では済まない」 と言う側へ順次向かっていくのが、日本なのである。そんな結局はみんなが足並みを揃えてゆくこと自体 (真実は 「綺麗事では済まない」 の使い方による階級闘争なのだが……) が日本の濁の一つの要因になっているのであり、今日も、その伝統なる日本文化を支えるため、みんな力を合わせて頑張っている訳なのです。(ビートたけし 「浅草キッド」 に日本の清濁観が表れている感じだ)

こうして日本人は日本語によって [清音・濁音] の分類図式から [理想・現実] の世界観図式を共有して来たのであり、その共有理念を利用しようと各人が各人の方法で 「綺麗事では済まない」 を用いては自己立場の優位を狙う保守主義もしくは小市民的もの言わぬ安全志向が育ってきたのである。日本における理想主義と現実主義の分類区分は清濁の分類区分と重なり合ったものでにあり、「綺麗事に過ぎない」 や 「人を馬鹿にした汚いやり方」 という評判の圧力を計算するのが現実的指針と見なされているのである。清の理念が共有されている場であれば濁と見れないように心掛け、濁の理念が共有されている場であれば清と見れないように自己工夫するのが、日本で成功する最も重要な鍵となろう。それに失敗すれば、清の場では 「ちゃっかり者」 と成敗され、濁の場では 「うっかり者」 と笑い者にされるだろう。公衆の前での自分が先頭に立って人助けへ向かうのを躊躇するのは、濁の公衆とそれぞれが解しているため、自身が 「綺麗事の主張をしている」 と思われるのを恐れたり、あるいは濁勢力への対抗策がないためでだろう。



そこで話は代わるが、特に日本語に特有なものと思われるハ行パ行バ行の [清音・半濁音・濁音] の三分類について触れておきたい。

全く日本の国語の教科書で育った私にとっては、その文字の姿に不思議さと共に当たり前なこととして取り入れていた訳だが、英語を見る限り、パ行p とバ行b は [無声音・有声音] にあり、一方のハ行h については唇音(p,b)と喉音(h)のよって、区別されているのである。韓国語においても事情は英語側と同じであることからして、ハバパの三分類は日本独自のものと認められそうである。

古代の日本語について調べてみれば、現在のハ行は h ではなく、 p もしくは f の音だったらしい。現代の日本語表記に直せば 「ファ」 から 「ハ」 に変わったようなものであり、その変化後は 「ファ」 に二音節を感じるようになったことを意味する。また 「ハ」 になったことにより、それが強く一気に発声される清音として新たな清の世界観イメージが定着したと思われる。無声音 f にたいしては有声音 v が対応しているので、「ファ」 の変形 「ハ」 に照らし合わせて、「ヴァ」 の変形 「バ」 の対応が割り当てられたのだろう。そして 「ヴァ」 から 「バ」 と発音されるようになって (それは 「ファ」 から 「ハ」 と発音されるようになったことを意味する)から、 そのバ(b)に対応する新たな半濁音 「パ」 が生じ、三分類の図式になりえたと考えられるのである。古代の 「パ」 から 「ファ」 への移行についてはさっぱりわからないが、少なくとも 「ハ」 への移行過程においては 「ファ」 からの移行であって、新たな p音の「パ」 表記が必要になったと思われる。(江戸時代)

さて一方の韓国語の場合はどうか。無声音 p と有声音 b の対応がある中、英語と同じく h は喉音と識別され、その唇音と関わってはいない。では古代の韓国朝鮮語にも f から h の変化過程があったのだろうか? おそらく漢字の伝来以降に生じてはいないであろう。漢字の呉音で h音に相当するものは、韓国語でも h音であるが、日本語の場合は h音がなかったために k音に変換されたと言うことらしいのだ。また当の現代日本語の音読み 「ハ」 である波、派、覇などが、唇音 f、p、b に由来することからして、古代日本語に h音がなかったことからの、唇音 「パp」、「ファf」 から派生した現在のハ行発音と見なせるらしい。

さらに韓国語の場合は二重母音がある点で日本語とは違っているようだ。 「ファfa」 とは、ある意味において hua と代用できるのであり、韓国朝鮮語には古来から h音と二重母音があったことで、「ファhua」 と 「ハha」 を区別しえたと言えるのだ。区別をしえたと言うことは、日本語における 「ファ」 から 「ハ」 の時代的推移を必要としないということである。

全く唇音 f のように唇が触れるまでにはゆかないが、最も唇を閉じる形である母音 u と開母音とを組み合わせた、二重母音 hua などで、fa に近い代用がなされていたと言えよう。日本語表記の 「わwa」 や 「をwo」 も、ハングル表記では 「ua」 や 「uo」 の二重母音の形で表されるのである。



一体、何が言いたいかと言えば、言語とは、ただの発声上の身体的癖を意味するのではなく、ものの見方や発声している伝統的社会環境に大きく左右されていることにある。我々が言語を研究解釈する際、すでにその研究解釈する態度自体が、ある言語環境によって何らかの解釈パターンに偏らせていると言うことであり、現代心理学や現代社会学のまるで言葉で考えているような理論にうんざりさせられることを意味する。

言葉とは、現実を写実する道具などではない。自らの現実解釈を伝える道具なのである。また言葉で考えるのではなく、考えを伝えるのが言葉なのだ。土居健郎の 「甘えの構造」1971 を読めば、あまりにも未熟な言語学による叙述であるのだが、未だ気が付かずに心理学者という職業が成り立っているのだから、驚きの一言だ。桜井哲夫の文庫本 「思想としての60年代」1993 では、その問題点に触れられてはいるが、土居氏本人を含め、その後の心理学者もたいして相手にしていないのだから、とぼけた知識人ぞろいの日本である。それを問題としていないこと自体が、どれだけ現代の日本社会に関係しているのかわからない心理学者ばかりであることを意味し、彼らはただ自らの仕事場を拡張しているのに忙しい。

本当、そろそろドラえもんも未来の歴史書を携えて今の現状を伝えに来て欲しいものだ。まあ~結局はドラえもんも、人々を各人の自己工夫に縛らせておく、そんなとぼけた現代知識人側の味方なんだろう。つまりは現代心理学者はのび太君的人間っていうこと。人のためになる心理学を発明することが仕事であって、現実を見ることは仕事ではないのです。



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