思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

連立方程式 と 社会観イメージ

連立方程式と言えば、中学で学ぶ加減法と代入法という二つの解き方がある奴だ。

x + y = 4 …①
2x + 3y = 9 …②

たとえば加減法の場合、①の両辺を二倍にして ②の 2x に揃え、それぞれ左辺は左辺同士、右辺は右辺同士を引くことにより変数 x を消去して、変数を y だけにしようとする方法である。

そしてもう一つの代入法とは、②を基準に固定して置く形で、①を x = 4 - y に変えたものを、そのまま②の x へ代入し、これまた変数を y のみとする方法である。


振り返ること、はじめて連立方程式と出会った時には、確かに新たな物の見方がそこに含まれているのを感じたものだ。またx軸とy軸のグラフに①と②直線を描いたその交点が、連立方程式の答え (x,y) = (3,1) になることに出会った際には、そんな漠然とした数学の全体的な仕組みが、まるでおいらを試しているかのように思えたりもした。さらに高校で習う逆行列の利用による解法となれば、また違う広い世界観イメージを作らせることとなり、中学時代の加減法や代入法の方法的な位置づけについて、それがより部分的なものであることを自覚させるものでもあった。それらは単に数学の中に限った不思議な仕組みだけではなく、もっとこの世の中の様々な考えを持つ人間たちが言い争っている社会状況の解明にもつながる、そんな世界観イメージを感じさせるものなのだ。



連立方程式の答えを導き出す方法には二つある。その出来事に触れること、中学時代の生徒にとっては、一つの衝撃的な出来事と喩えてもよいのだ。そしてその事件を目撃した際、人それぞれ、その二つの方法があることについての解釈にもバラつきがあり、異なったイメージを抱いているように思える。まあ~、たかが数学なのだが、しかしその連立方程式には、様々な人間が集まっている社会についての新たな見解へと向かわせる、不思議な世界観イメージの素地があるのである。

随分と時がたった今であるから、当時の漠然と感じた雰囲気について、こうして言葉にして表現できる訳なのだが、私の場合は、連立方程式の全体的な枠組みに、何か時間の変化に影響されない全体的な世の中の構造体が象徴され、その全体の中で刻々と変化する現実の状況が、教科書に記された各様々な形の具体的な変数 x、y を含んだ二組の式に象徴されている、そんな世界観イメージを感じたのである。

一方、一般的な学習指導の場合は、その連立方程式の解答 x、y のみに世の中の未知なるものが象徴されていて、その解明に二つの消去法と代入法があることを我々人間の側のそれぞれの自己工夫のごとく強調するのだ。そのためそれぞれの人間が真実 x、y を探し求めているのが人生だが、それぞれ異なった方法でそれに近づいているとイメージさせるのである。(中には、様々な角度から世の中を見る必要性を、研究者の心構えとして見る場合もある) 実際、幾人かの人が、そうした色々な方法があることの社会的相対性について、力説していた記憶がある。

しかし実際の数学の概要は、その二つの方法があること自体が、その求めようとする解答と等しく、始めから法則に則った領域に位置しているのだ。数学とは解答 x、y を見つけるものではなく、あらかじめ解答と方法の両方を包括している関連体系のことであって、ただ一般の数学の授業においては、その関係体系内におけるケースバイケースの x、y の設定された式の方だけに意識が偏って集中しているに過ぎない。

多分、理系思考とは、その論理的な方法の工夫に集中して物事を進めようとする傾向であり、文系思考とは、さまざまな方法の相対性や多様性の社会的状況の観察に偏ったものである。しかし実際は、数学の全体的な枠組みと社会学的な枠組みの間には、思ったよりも類似する思考形態の互換性があるのだ。別に社会学に関わる数学の領域とは、唯一統計学的な利用に限るものなのではなく、それぞれの思考形態の類推によってなされる、新たな世界観モデルの応用がなしうるのである。

決して難しい専門分野の数学の遠い話ではなく、義務教育の連立方程式にさえも、新たな社会観の素地が渦巻いているのである。我々は何かの役に立つと思って連立方程式を学ばされたのだが、しかしその役立つ領域についてさえ、実は知り尽くしてはいなかったのだ。ここでは詳しく触れないが、代入法と加減法のそれぞれの方法には、異なった世界観イメージによる思考形態のちがいがあるのである。二つある変数を一つにするためのそれぞれの方法に、その基礎となる世界観イメージが異なるにも拘わらず、同じ結論へ向かうことの不思議が、今思えば、スピノザ的な汎神論への世界観イメージへとつながる原型が感じれられたりもする。



いずれにせよ、連立方程式に二つの解明方法があることについて、それを絶対的解答にたいして相対的方法もしくは方法の多様性の側のみを強調するイメージの場合には、現実社会の人々が多様であることから相対主義的倫理を説くまではよいのだが、さらにその相対性を利用する形で、まるで絶対的倫理のごとく訴える形で勢いをつけてしまうこととなる。

しかしそうではなく、人々がそれぞれ世の中を個性的に解釈していることのそれぞれの仕組み(方法の多様性)に限らず、同時にそれぞれの解釈がぶつかり合っている社会的状況自体(解答と方法を包括する全体的場)にも存在の仕組みを感じると言った意味で、"未知なる解答"と"二つの方法があること"の双方を包括している仕組み自体にこそ、未知なる不思議の領域が象徴されなければならないのだ。

つまり探求すべき解答のみに未知なる神秘を見る場合には、個人主義的な自己工夫の社会観に近くなり、一方の解答と方法の双方に包括的な始原的神秘なる未知を見る場合には、キリスト教のような一神教的な社会観、もしくは一神教的なスピノザ的汎神論に近くなると言えよう。

ただし実際は、数学と物理学の位置関係を踏まえ、アインシュタインの特殊相対性理論の相対性を包括している全体像の世界観イメージに達しなければ、その連立方程式にまつわる社会観の関係までは充分に自覚しづらいものではある。しかし私が見る限り、確かに連立方程式には、ある程度の人々が抱く世界観イメージに奇妙な形ではあるが、利用摂取され影響を及ぼしうるものを含んでいると思われる。



連立方程式に見る我々の世界観イメージについて、もう少し説明を加えておこう。たとえば我々は加減法で解いたり代入法で解くのだが、その解く作業とは現実の時の流れの中がなされる、まさに時間がかかる作業である。そしてその求められる解答自体とは、我々が行っている計算作業とは別に、すでに予め存在しているものと考える必要があり、二つの方法で解けること自体にも、実は解答と等しく、我々の計算作業とは別に、すでに用意された仕組みの中にあるものと考えなければならないのである。

つまり、未知なる x や y を求めるために様々な方法を創意工夫して発展させる人間の力に驚くのではなく、未知なる x や y を解く方法自体の発見、あるいはその方法で解けることの未知なる仕組みに驚かなければならないのであり、さらには人間にそうした連立方程式を作らせ解答を求める能力が与えられていたことについて、驚かなければならないのだ。問題が解けた際、先生に褒められて喜んでいる内は、この意味がわからないだろう。時節もちょうどよさそうなので、ここは池上先生にいい質問が出来るよう、未知なるものの位置を見極めることに喜びを感じ、それを持続してもらいたいものだ。



さて世の中を見れば、人それぞれの方法で頑張っている。そんな状況について私が思うのには、まるで代入法を得意とする奴らが加減法を用いている奴らを軽蔑し、加減法を得意とする奴らが代入法を用いている奴らを軽蔑しているように見えるのである。あるいは縦社会を支える社会的分業観から、それぞれの方法をそれぞれの人々の創造物として解して、その発生に全体的な枠組み(歴史的、社会的な要因)の力を見ていない。またその互いに睨み合っている二人に向かって、「人それぞれの方法がある」 と、多様性にたいする寛容性を説き、争いをなだめようとする人達もいるのだ。

私には世の中の様々な方法にたいする対立が、連立方程式の二つの方法に象徴的に重ねられ、そのように見えてしまうのであるが、その対立にたいしては単なる多様性にたいする寛容ではなく、バベルの塔のような神による計画的分離、あるいはアインシュタインの相対性理論のように、相対性の奥に潜む、あらかじめ創られているだろう包括的な現実の枠組みの結果と感じるのである。

連立方程式の二つの方法について、それを包括的に見る世界観イメージは、キリスト教的な一神教を気味悪がる日本では、なおさら何のことか理解されることはないばかりか、それに不愉快を感じる文化にあるのだろう。アインシュタインの相対性原理については関心を示すが、等価性についての視座がわからないし、わからないことさえ知らないのだ。わかるのならば、とっくに現在の心理学や社会学も、もっとまともなものになっていたことだろう。


連立方程式までの算数や数学では、解答を求めることの好奇心や、また解答が求められることの不思議の段階であった。しかし連立方程式によって、解釈と二つ方法を共に含めた漠然とした解釈イメージの枠組みが見られるようになり、さらには心理学や社会学の分野においても応用しうる、そんなある種の解釈イメージ体系を原型に含んでいる連立方程式なのである。

傷だらけの人生

ただ注意されたい点は、今や、馬鹿と阿呆が絡み合う御時世ではありません。馬鹿と阿呆は、互いにとぼけ合っている世の中なのでございます。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/12/16(木) 21:09:16|
  2. 現代思想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<Happy Xmas ~遠くを見なければ近くはわからない 近くを見なければ遠くも見えない~ | ホーム | ローマ帝国滅亡論 ~ゲルマン人の監視意識~>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/209-ab6fe83b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。