思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

光のどけき春 と リヴァイアザン ~誰もが みんな コソ泥意識~

伊勢正三と松山千春に「あしたのジョー」 など、それらには70年代の日本における古今集の光のどけき春の傾向、また一方ではアメリカのメルヴィルの 「白鯨」 にリヴァイアザンの傾向を見てきた訳だが、ここからはそれぞれに潜んでいるだろう社会学的な物の見方について考察をしてゆこうと思う。

まず機能主義的社会学について言っておけば、そうした立場からの解釈パターンとは 光のどけき春 や リヴァイアザン に、 「社会秩序を維持するための機能がある」 と強く信じて説得する理論なのである。それは光のどけき春の中で絵にならない散る花や、白鯨のエイハブ船長については、ことごとく逸脱の題材とし、自らが信じ、かつ匿名大多数を味方あるいは扇動できるところの"光のどけき春"や"リヴァイアザン"の維持を訴えかけている訳である。

いやはや、日本文化の光のどけき春とは、脈々と生活してきた人々の集まった平穏無事の象徴である。つまり、それを壊すと思われる者については 「迷惑者」 と呼ぶのであり、彼らにとっては光のどけき春を迷わし惑わす者なのである。そしてある人物が 「迷惑者」 と呼ばれている現場を目撃するがゆえに、光のどけき春に所属する人々たちはそれぞれ自身が 「迷惑者」 と呼ばれないように注意を払うようになるのであり、一般的にその人々の集まる光のどけき春の日にたいして、個人的悲哀はお互いに隠さなければならないものと文化的に維持しようとするのである。

矢吹丈も自身の個人的悲哀は隠した。あの小さきドヤ街のちびっこ達も彼らなりの個人的悲哀を抱えているのであるから。

しかし力石徹の亡霊は、それに釘をさす。誰もが光のどけき春のために個人的悲哀を隠していることへと社会的信頼を置こうとしていることにたいして、力石は全く参加する気もなく、ただニヒルな冷ややかな視線をおくるのである。矢吹丈が光のどけき春へ少し足を踏み入れ始めたのにたいして、力石の個人的悲哀の隠蔽の場合は、全くそれとは関わりがなかったのである。

つまり力石徹にとっての光のどけき春とは、リヴァイアザンもしくは白鯨の意味合いが含まれていたと言えるかも知れない。ただし力石はエイハブのようにリヴァイアサンとは闘わない。力石は光のどけき春には映らない景色をリング上での闘いに重ね、それを光のどけき春へ見せるのが仕事なのである。そのため矢吹丈は光のどけき春の景色を愛しながらも、一方では力石徹の光のどけき春への冷ややかなニヒルの視線に晒されたのだ。矢吹丈は人々と等しく個人的悲哀を示すことを、光のどけき春のために譲り始めていたのだが、力石徹が譲ったものとは光のどけき春へではなく、過酷な減量による矢吹丈との試合であったことをジョーは感じてしまったである。

愛している光のどけき春の人々からの忠告が矢吹丈の耳を通り過ぎるのは、ニヒルでストイックな根性のためなんかではない。あまりにも人々の個人的悲哀の隠蔽には様々な種類があることの認識が、一時も止むことなく、矢吹丈を取り囲むのである。



光のどけき春の過剰なる擁護、あるいはその過剰なる宣伝、それが機能主義的社会学の正体なのである。社会秩序という名の全般的風景を維持することを大前提とし、自身を支えてくれる人脈作りのために、ある特定の人々の出番と利権のための場所を確保し、かつ関わりのないある人々の出番や利権にたいしては、絶え間なく砕き続けるために組み立てられた理論なのである。彼らは時代変動の動向についてはひとまず 「逸脱」 と呼んで現状の機能を侵すものと宣伝し、仮にそれが優勢になれば新しき機能の発動かのように褒めあがれば仕事になる方々なのだ。

そんなとぼけた解説者たちの社会的機能の改革は、いかになされているのだろうか? 彼ら自身がそれを解説することはない。彼らはいつまでも、 「僕説明する人、みなさん聞く人」 気分なのである。それを改革できるのは、たとえばグルードナーが 「社会学の再生をめざして」 で示されたように、知識社会学からなされる現状社会学の社会的影響について自覚することにある。

しかし、おとぼけ社会学者たちは新たな社会学を広めるために少しずつ進むどころか阻止することに貢献している。仕方がないので、とぼけた社会学者を困らせるためにも、衆議院選挙のような一般大多数の支持を取り込んで新たな方向へ向かわせたいのだが、しかし一般大多数にはそんな状況を知る能力はない。社会学者の権威と一般大多数の知識形態と思考形態こそが、この社会状況を構成している現実なのだが、そんな社会学的現実を理解できる人間は少ないのである。

まあ、こんなことを私が言えば、それを「上から目線」 とお呼びになられる下から目線上手の阿呆が大多数の中にはいらっしゃるので、とぼけた社会学者も安泰だろう。全く下から目線上手の奴らに潜む、社会観なき謙虚面した上から目線が、これからの日本の運命を決めるのである。メディアもそんな社会学者ばかりをお呼びする方々であるが、人々の知識形態では、そんな状況が意味することには、気付きもしないだろう。



しかし光のどけき春を大切にしようとすることとは、必然的に機能主義的社会学の従者となってしまうことを意味するのだろうか?

いや、光のどけき春にたいする態度、それは必ずしも機能主義的なものばかりとは限らない。その機能主義とは異なるものとは、イギリスの保守主義の父と呼ばれるバークにある。簡単に言ってしまえば、それは 光のどけき春 を機能としてではなく伝統と捉えるものなのである。バークはすでにイギリスでなされた市民革命と比べて、当時のフランス改革の急進性を見ては、そこでイギリスとフランスにおける伝統についての見方に相違あることを指摘したのであり、おおよそ伝統に偏見の有用性を見るか見ないかの違いを示したのである。後にフランスでは機能主義的社会学が生じ、社会的な道徳的結束に有用性を見始めた訳だが、イギリスの場合はすでに伝統に有用性を見ていたのである。裏を返せば、伝統的偏見を徹底して急進的な啓蒙主義的思考が改革しようとしてしまったフランスであったがために、新たな機能主義を発明しなければならなかったのだ。

伝統的偏見の有用性とは、世界史の流れに偏見の漸進的改革を見る、そんな風潮にどっぷりと浸かった人々にとっては奇妙なものであろう。それが意味することとは、簡単に言って持続性の有用性のことである。たとえば偏見の誤りを正す新たな改革がなされたとしょう。しかしその正したとされるものが一体どれだけ正しいと言うのか、また仮に正しいとしても、それはかなり局所的な部分に限定されたものであって、その新たな改革が広がることにより新たな予想しえない事態が様々生じるのである。科学理論により開発されたのは良いとしても、その後には公害問題あるいは原爆などの兵器への応用と次々と予想しなかった事態が生じるものである。

別にバークの保守主義は、 「伝統を守れ」 と言っているのではない。 「持続してきたことの有用性を配慮しろ」 と言うのだ。二大政党制の発祥がイギリスであった理由は、まさにここにある。つまり伝統的偏見で得をしている側と損している側の二大政党なのである。損している側からの改革案にたいして、得している側は伝統が崩れる時の危険性を訴える。損している側は改革案の素晴らしいことを説明するだけではなく伝統が崩れた際の危険性を考慮しなければならないのである。もし改革案が発足した際には、共にそれぞれの観点で伝統が維持されていた時の有用性が何だったのかを見るだろう。新しいことを始めた後の現実についての考え方が、まさに今日のバークの保守主義の重要な点である。

イギリスで功利主義が普及したのは、ただ早くに市民革命を果たした個人主義的傾向のみによる結果ではない。得する側と損する側の社会状況を見る利益への監視意識、そして伝統配慮の議論意識が働く文化圏であったことも要因であろう。ただの欲張り個人主義の芽生えではなく、監視し監視される利益についての社会観があった結果であろう。イギリスは実力個人主義ではなく配慮個人主義であったためと言ってよいのか、ジェントルマン紳士が登場したのだろう。

しかし野党分裂状態の自民党一党独裁体制が長く続いていた日本の場合には、伝統維持における得する側と損する側についての社会意識が広く共有されていなかったことを意味し、まるで共有されていない社会観同士の闘いのようである。イギリスは二大政党制に共有の社会観を持った、利益や幸福の社会的配分の議論であったと思われる。そして明治維新では"自助論"であるスマイルズ 「西国立志伝」 がベストセラーとなった日本なのであり、個人個人が志を立てては頑張る、そんな"独立自尊"の理念が西欧思想の特質と解釈され、全般的人々の知識形態や利益状況を監視する意識を共有する方向には向かわなかったのである。明治維新以降の知識人は、みんなで監視しあう社会観の普及ではなく、自身が監視されることがないように、自己努力、自助努力、自己啓発ばかりを植え付ける、そんな社会観がないものばかりに力を注いでおいては、そんな自身のなした知識普及に社会的貢献さえ感じ、自信を抱いてきた者が大半なのである。



ともあれ、矢吹丈は、力石徹の亡霊の意味について、光のどけき春の人々へ向けて伝えるべく仕事さえ知らなかった。と言うのも、日本には光のどけき春にたいして革命の声を上げ、光のどけき春の側もその反論を聞くと言った、そんな二大政党制的な意識は共有されていない。光のどけき春には議論の場はないのだ。そこは、ただ互いに仲良しを演出する、のどかな舞台であって、むしろ議論の提議をする奴は迷惑者とされる場所なのである。光のどけき春にある議論とは、ただ光のどけき春で暗黙に認められる囲われた縄張りがある議論にすぎず、そんな会場で討論される社会問題であり、そんな会場の討論がその後の社会状況を運命づけている。つまり社会問題を扱うこととは社会問題を軽減させるための行動ではなく、未来の社会問題を生むための行動に過ぎない。討論者自身の社会的影響と社会内立脚地点が問題化されない限りは、いつまで経っても、ただの討論者自身の安全地帯を確保するためになされる社会問題化なのである。

いやはや今日の日本では、誰もがみんな、コソ泥意識の達人を目指している! 大多数が機能主義的なコソ泥意識で上手に活躍する中、私の場合は、ただ静寂主義的なコソ泥意識に磨きがかかるばかりだ。



さて、あなたには、どれだけ人々のコソ泥意識が理解できますか? また、あなたのコソ泥意識、ちゃんと誰かに見守られていますか? 人は、いつか死にます。波に乗ったコソ泥意識とは、自分で自分のコソ泥意識を見守るものですが、やがて死についての意識が、それを不安にさせるでしょう。



これこれ、そこの、あなた? コソ泥意識が笑顔に見えていますよ!

それそれ、そこで考え悩んでいる、あなた?コソ泥意識を鍛えましょうね! あなたが考え悩んでいるから、阿呆なコソ泥意識の達人たちが、社会問題化の舞台へパラサイトする社会学者や心理学者となって活躍してしまうんですよ!

まあ~、私が見る限り、どうやら神様とは、人々のコソ泥意識を理解することで、自身のコソ泥意識を見守って下さるように、この世の中を作ったようですね。たいていの人々は、ただ仲間内の協力的庇い合いや、自分で自分のコソ泥意識を見守ろうとしているだけです。人々のコソ泥意識に嫌悪感を抱いていないで、見守られるコソ泥意識へ向かい頑張りましょう。せいぜい怨むのは、人並みの馬鹿ではなく、特殊な馬鹿に生まれてしまったことだけにしなさい。

モンスター



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
スポンサーサイト
  1. 2010/12/06(月) 17:07:29|
  2. 新しい日本人論
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<ジョン.レノン ~あれから30年~ | ホーム | あしたの光のどけき春の日 ~力石徹の亡霊~>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://gold1513.blog48.fc2.com/tb.php/201-9adbc53d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。