思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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あしたの光のどけき春の日 ~力石徹の亡霊~

1970年にテレビアニメ化された 「あしたのジョー」 。それも思い起こせば、日本文化に深く根ざした 光のどけき春の日 を基調とした作品であった。

矢吹丈という男は、光のどけき春とは遠く離れた場所で少年期を過ごした。次第に丹下段平、マンモス西、ドヤ街のチビっ子たちと知らず知らずに人間関係を築いて行った。おおよそ林紀子の家である林食料品店が、一般的日本人の光のどけき春の象徴と言ってよいだろう。そんな状況の中、力石徹との対戦によって、矢吹丈に奇妙な意識が刻み込まれたことが、 「あしたのジョー」 の 「あしたのジョー」 なる由縁なのである。

力石徹は過酷な減量によって対戦に挑み勝利するが、矢吹丈と握手を交わそうとしたその瞬間、彼はリング上に倒れ、そして人生を終えた。

矢吹丈とは散る花の側の人間であり、またそれを自覚していた。しかしジョーは力石徹の死によって、自分が段平親父、マンモス西、ドヤ街のチビっ子たちがいる光のどけき春の景色の中にいる散る花だと気付く。と言うのも、一方の力石徹が光のどけき春の景色には全く映ることもなく散ったことに遭遇してしまったからである。力石徹の死が矢吹丈へ与えたこととは、ただ単に何のために戦っているのかと言ったニヒリズムだけではない。それは光のどけき春にたいする、ジョーが知らずに思い始めていたそれを守りたい気持ちと、力石の死によって生じた何故に守らなければならないのかという疑念の混在なのだ。またニヒリズムと言えば実存主義を連想できる訳だが、矢吹丈とはゼウスなき縛られないプロメテウスのようである。さもなくば、力石徹の実存主義と光のどけき春の機能主義に挟まれた状態にある。

矢吹丈には、光のどけき春に映らなかった力石徹の亡霊が突然に襲いかかったのである。そしてジョーの周辺の人々にたいしては、決して力石徹の亡霊が現れることはない。力石徹の亡霊が乗り移るのは、ただ光のどけき春とは無縁の少年期を過ごしてきた、散る花同士である矢吹丈だけなのだ。ジョーの他に、力石徹が光のどけき春の景色にはなかったことの意味を察していたのは、おそらく白木葉子だけである。しかし男たちにはそれぞれ自分の世界があり、互いに睨んだり覗いたりするからなのだろうか、彼女には力石の亡霊が取り憑くことはなかった。やがて力石の死後、白木葉子は白木ジムの会長となり、矢吹丈をサポートする。おそらく白木葉子は力石徹と同様、意味の違いはあれ、光のどけき春の景色とは無縁の存在であり、一方の矢吹丈はと言えば、気付けば光のどけき春の景色を背負ってしまっていたのである。

思えば、光のどけき春の日にいる者同士、林紀子はマンモス西と結ばれるのが似合う。光のどけき春と無縁な白木葉子の場合は、その都度の社会的需要を見つめて供給作業に勤しむのが似合う。しかし矢吹丈の場合は、力石徹の亡霊と光のどけき春に挟まれた、溶け込めない散る花であって、一体何をしたらいいのかわからない、毎日が明日探しの状態にあったジョーなのである。

原作の梶原一騎は 「タイガーマスク」 も手掛けているが、光のどけき春から外れた少年期と、後のちびっこハウスの子供たちや若月兄妹に光のどけき春を背景を求めた伊達直人は、やはり矢吹丈と似ている。ただ"散る花としてのタイガーマスク"と"光のどけき春の景色の伊達直人"が、はっきりと切り離されていた点では矢吹丈とは大きく異なり、それはデビルマンや中村主水の立場により近い。タイガーマスクデビルマン、中村主水は、自身が見たい理想の風景のために闘い、現状の光のどけき春の中に映る自分は適当に演出する人々である。しかし矢吹丈の場合には、見たい理想とする風景など求めても見つからず、現状の光のどけき春に映る自分にしても自然と築かれたものであって、過度な演出的工夫など必要としないし、もともとする気もなかったのである。

矢吹丈にとって光のどけき春の景色とは守るべきもの、いや壊すべきものではなかったが、力石徹にとっては壊れようが壊れまいが自らの信念として働くものではなかった。光のどけき春の人々には、この区別は到底わからないことであるし、気付きもしない事柄である。ただ白木葉子がうっすらと感じていると言ったくらくの区別なのだ。連合赤軍は 「我々はあしたのジョーである」 と言ったらしいが、彼らはただ明日もわからない闘いのため、いくら叩きのめされても立ち上がり続ける意味であって、光のどけき春と力石の亡霊に挟まれたジョーの悲哀までは考えもしなかったであろう。

光のどけき春の人々には、決して見えない力石徹の死。しかしその光のどけき春を大切にしようとしながら、力石徹の亡霊に引きずり込まれる矢吹丈。力石徹の亡霊に引きずり込まれたからには、光のどけき春に相応しい笑顔もできず、散りゆく花にならざる負えない矢吹丈。またタイガーマスクやデビルマンのように、光のどけき春を守ることに明日を見い出すことも出来ない矢吹丈。ただボクシングというリングで時間を費やす矢吹丈だったのである。まさに白木葉子が、一体どこまで矢吹丈を理解できたかが、 「あしたのジョー」 にとって鑑賞し応えのある一つのテーマでもあろう。

そこでメルヴィルの 「白鯨」 と比較しておくならば、エイハブの亡霊に取り憑かれたイシュメールは、悪魔の仮面を被って光のどけき春の中に入り込んで行ったが、力石徹の亡霊に取り憑かれた矢吹丈は、光のどけき春を眺めながら、ただ彷徨うだけだったのである。そして白木葉子が光のどけき春とは無縁な力石徹を目撃してしまったことを考えるならば、エイハブを目撃してしまったイシュメールと、立場上は同じ位置にいたことになる。



果たして、今の光のどけき春を守るために散った花、新たな春のために今の春と闘って散った花と色々あるが、しかし、それぞれをそれぞれの人々がそれぞれに賞賛し解釈している中、一体、あしたの光のどけき春は、どちらにあるのでしょう? いずれにせよ、日本ではリヴァイアザンと闘ってはなりません。中村主水のごとく、小馬鹿にされながらも散りゆく花となり、今日の光のどけき春を見守ってやらなければならないのです。

(注意事項: しかし、光のどけき春があるからこそ、今の自分があると、むしろ感謝の意を示すのが筋だと、光のどけき春の利権者たちが狙いすましているので、公の場で声にしては危険です。)

親心、子知らず

子心、親知らず

この際、お互いがお互いの無知に寛大であると思い込みましょう。そのどちらが本当の寛大かの判別所は、どこにもありません。見れば、各人の社会的な宣伝効果が勝負所の世の中のようなので、みなさんも頑張ってみて下さい。私の場合は、もうしばらくデビルマンを見習い、素晴らしき裏切り者になれるよう、悪魔の力を身につける方面で頑張ります。



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  1. 2010/11/24(水) 18:25:39|
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