思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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「白鯨」 という名の社会 ~知識社会学から見える風景~

メルヴィルの 「白鯨」1851は、名作の一冊とされているもので、日本でも岩波文庫や新潮文庫から出版されている。しかし日本人が一読した場合に、 「これは素晴らしい名作だ」 と思うとしたら、それは相当とぼけた奴である。せいぜい 「こんなのが名作? まあ~、詳しいことはよくわからんが、何かありそうな気がする一冊だな」 と思うことこそ、鑑定眼があると言ったもんだ。

数年経って思い返す、そんな私からの見識を述べさせてもらうならば、 「白鯨」 の名作たる由縁とは、数々の歴史的考え方を踏まえた新たな社会観の提示にある。特にアメリカやイギリスでは、ホッブズの 「リヴァイアサン」1651 やミルトンの 「失楽園」1667の歴史書物が浸透していた文化であったがゆえに、 「白鯨」 の威力を感じることができたのであって、そのアメリカやイギリスの評価状況から次第に多文化圏にも移行し、そして今日における著名度を保てたものである。つまり 「白鯨」 とは、それを評価した文化圏の様相がわからなければ、何が素晴らしいのかは、まず理解できないだろう。

その理解の手引きとしては、まずイシュメールの立場を、読者自身の生活意識と重ね合わせる必要がある。現状の習慣的生活に疑問を持たない人には、まず難解な本である。また様々な人々の心理描写を期待する人にも、意図することは伝わらないだろう。 「白鯨」 は社会生活に伴う喜びや悲しみなど、心理解釈にあるのではなく、社会の見方、社会観の投射であるからである。

全く生活の安定や社会的競争で生じる心理や独白を主題する現代日本には、大概波長は合わない。むしろ閉塞感が漂う世の中で、何か新たな行動を起こそうとは思うが、ただ時が過ぎていくだけと思っている人にこそ、若干の理解が得られるのだろう。アメリカと言えば、開拓精神と喩えられるのだろうが、その現状にたいする疑念と開拓への思いがあることが、最低限の必要事項である。

さてイシュメールにとって陸は現状生活の象徴で、海は現状打破の象徴である(第1章)。しかし海には白鯨の得体の知れぬ脅威があり、それに足を取られそれにこだわるエイハブという人物と出会うのである(第16章)。

白鯨とは、我々個人が壁と感じる全般的な苦境対象物と考えられるのだろうが、あえて限定的に世間とか社会と言う漠然とした人々の集団性の象徴と見なしたい。ホッブズが国家や共同体をリヴァイアサンと譬えたように。すればエイハブとは急進的左翼思想の活動家でもある。自身の片足を噛みちぎった社会を改革しようと立ち上がった、急進革命家である。あるいはゼウスに立ち向かうプロメテウスと言ってもよい(第44章)。イシュメールにはもともとゼウスへ立ち向かうプロメテウス的意志や目的はなかったのだが、そうしたプロメテウス的人物エイハブと出会ってしまうのである。プロメテウスはゼウスに縛られてから、周囲から頑固にならず非を認めて謝るようにと色々助言されるが、一向に意志を変えない。

イシュメールはそんなプロメテウス的エイハブを、上には民主主義を唱え、下には暴君と見ている(第38章)。日本に当てはめれば、芥川龍之介や太宰治の自殺より、三島由紀夫の自決に近いエイハブである。そう、三島由紀夫は時代的風潮にリヴァイアサンを見て闘いに挑んだエイハブに譬えるのが、わかりやすいだろう。(右も左も関係ない)

「白鯨」 とは、エイハブ三島由紀夫の自決を見ている、そんなイシュメールと我々一個人を重ねてみる物語なのである。実際、我々は三島由紀夫の自決について何を思うのだろうか? おそらく自己信条に陶酔し切って時代や社会を見違えた破滅と見るか、あるいは三島自身の生き様の結晶と見るのが大半だと思うが、メルヴィルはそう見ないのである。「白鯨」 の方法とは、三島の功績やら失敗の評価を下すことではなく、三島の自決を人々が目撃した結果について示すのだ。エイハブが死に、残されたイシュメールで語られるのは 「我ただ一人逃れて、汝に告げんと来たれり」 と旧約聖書の 「ヨブ記」 が引用されている。イシュメールはエイハブ、プロメテウス、あるいは三島由紀夫の自決を目撃した証人、リヴイアサンに闘いを挑んだ者を目撃した証人の象徴であり、そのリヴイアサンを知らないばかりか、それに服従し加担している構成員となっている人々へ向けて、まるでヨブへ知らせた使者のような、苦境をもたらす悪魔を象徴させているのである。

タイトルは 「エイハブ船長」 ではなく、 「白鯨」 である。白鯨を知らない白鯨構成員への関与がテーマで、エイハブはその白鯨を見た歴史的一類型の一つであり、新たな一類型のイシュメールを示すことにある。 ヨブとは、もはやリヴァイアサンの放つ苦境にたいして試練的な独立自尊を信仰する者であるが、イシュメールはリヴァイアサンと闘った者の存在を示すためにヨブに苦境を下す。つまり 「ヨブ記」 の試練観に歴史観や社会観の不備があり、その不備を呼び起こす象徴がイシュメールなのだ。リヴァイアサンを見ないヨブに、リヴァイアサンを見せる社会観投射の文学が 「白鯨」 である。

三島由紀夫の自決を歴史的事件と見ること、かつその歴史的事件を目撃した人物がいたという歴史的事件があることを意味する。その匿名なる大多数の象徴が、リヴァイアサンなのである。専門家や評論家たちは、様々なリヴァイアサン構成員に喜ばれるようにと、三島由紀夫の自決を解説してきたと言うこと、そしてその解説がリヴァイアサンを 支えていることを意味する。

メルヴィルの実存主義あるいは現象学な近い物の見方については、特に次の二つに認められる。


私のこの眼は窓で、私の体はその家である。(第2章)

私の肉体は、私ではない。(第7章)


それは地上の常識的理性から離れ出て、歓びや哀しみとも離れた認識に達すること(第93章)と繋がる。若干、ショーペンハウアーの意志の否定に類似した観点かも知れないが、しかしメルヴィルの場合は肉体や眼を自分の家や窓に喩えたように、理性を内装装飾のように考えているのだろう。常識的な人々からは狂気と呼ばる理性とは人々から歓迎されない内装装飾であり、常識的な人々たちは互いに互いの内装装飾を褒め合っているのである。理性とは自分を律するものではなく、自分の内装装飾を描くための絵の具である。ただそれは理性によって描かれた装飾模様に自身を律することが描かれているに過ぎない。そしてそれを人々に披露したり自分で確認するものなのである。家、窓、内装装飾する道具、すなわち肉体、眼、理性は、何故か知らぬが気が付けば自分に備え付けられていたものなのだ。

裏を返せば、エイハブの狂気とは、エイハブが自身で描いた内装装飾に振る舞わされた結果であり、エイハブの結果ではない。またエイハブを解釈する我々は、我々が各人描いている内装装飾を参考にして下す、習慣づけられた思考による結果なのである。つまりそうした自覚から知識社会学的な観点が浮き彫りになるのであり、性質論的な社会学的あるいは心理学的な解釈は彼らの内装模様に過ぎず、それを除外し新たな内装模様にしようとする力がある。

イシュメールは先代のエイハブの知識理念を見てヨブへ告げる。そしてそのイシュメールもエイハブのように自らの知識理念を放射し、後代のイシュメールに見られ、後代のイシュメールもヨブに告げる。ひょっとしたら後代のイシュメールとは、自らが告げたところのヨブなのかも知れないが。

メルヴィルは 「白鯨」 で教訓的あるいは崇拝的な歴史観を批判し、近代歴史学ランケの仕事を施したようなものである。我々の抱く知識や発見なども、太陽や星が自らが動くのではないのと等しく、得体の知れない力によって生じる(第132章)。まるでスピノザの自由意識の否定やランボーの 「我は他者なり」 である。



「白鯨」 という名の社会。機能主義的社会学とは、リヴァイアサンには害悪性もあるが、社会秩序を保つのに必要と説く。リヴァイアサンに足を奪われ闘いに破れたエイハブは、機能主義から見れば逸脱の結果にすぎない。お仲間の心理学者たちも、きっとエイハブについて憎みにとりつかれた者、仮想敵に突進した者と、個人心理学的解釈をリヴァイアサンの構成員に聞かせて下さることだろう。またエイハブは神への反逆、いや社会への反逆者と見なし宣伝して下さることと思う。彼らには、リヴァイアサンを認識することはないためか、彼らの学説自体がリヴァイアサンを支え維持していることには全く気づかないだろう。いや、彼らは大多数の構成員へ気づかせないよう慎重な工夫をこらしながら、こっそりとリヴァイアサンの操作に加担していることを自覚しているのであり、それに自尊心さえ抱いているのかも知れない。

メルヴィルが見たリヴァイアサンとは、誰もが大なり小なり小突かれた経験によって、小突く側への従属化に満足することである(第1章)。みなさんはフロイトのエディプスコンプレックスって、ご存知だろうか? エディプスは、父がある小突かれてきた経緯を経てある状態になったことを見ず、自分が父に小突かれる状況しか見なかった。エディプスは父が受けてきた漠然とした社会的圧力、つまりリヴァイアサンの力を見ずに、父に力を集約して見てしまったのである。エディプスコンプレックスと言うのは、リヴァイアサンが見えないリヴイアサン内の闘争コンプレックスなのだ。しかし阿呆なフロイト主義たちにはそんなエディプスの知識形態がわからない程度の思考能力なので、エイハブについては彼の個人的内部について懸命にあれこれ解釈するしかなく、リヴァイアサンの構成員たちに解説しては学者の地位を築いてきたのである。

つまり 「白鯨」 とは、現代心理学や現代社会学の間抜けさを暴露する教本と、ここに記しておこう。リヴァイアサンに苦境を強いられたヨブだが、メルヴィルはその苦境を神から与えられた独立自尊的な試練のみ限定することにたいして、リヴァイアサンを見すえて闘うこと、つまり社会観を有するための試練を示さんがために、エピローグで引用したと思われる。我々はエイハブに驚嘆賛美したり教訓分析するべきではない。驚嘆賛美や教訓分析することはリヴァイアサンという自集団中心主義の僕に加担し、そこでの階級闘争に生きがいを見いだすことを選択したことを意味する。

ヘーゲルは弁証法的止揚に歴史的発展過程を見たが、メルヴィルはリヴァイアサンにたいする人々の多様なる対応の漸進的過程に歴史的発展の一側面を見たのだ。メルヴィルの方法は、ヘーゲルの弁証法よりは、むしろヴィーコの "永遠の理念史" の方に近い。

しかし今日の日本の坂本龍馬の歴史的扱いを見る限り、それはまるでリヴァイアサンを育てる栄養剤のようだ。もし坂本龍馬が自分を持ち上げている今日の日本の状況を見たならば、その誉め上げて感激している暢気さに、きっとビックリして下さるだろう。どの時代にも人それぞれの意見をまとめることに駆けずり回る者を知らずして、流行りの偉人について語り合うことで協調満足し、全く 「死人に口なし」 を上手に取り扱う、幸福なリヴァイアサン構成員たちである。



メルヴィルは、出来事を見ようとしないヨブの信仰へ使者を送った。そして使者は、新たな社会観と歴史観を、ヨブとリヴァイアサンへ投げ込む。イシュメールはすべてのリヴァイアサンに逆らい、すべてのリヴァイアサンは彼に逆らい、そしてすべての兄弟に敵対した(「創世記」16章12節)。そしてヨセフをエジプトへ連れて行く仲介となったのはイシュメールの子孫である(37章27-28節)。詳しいことは知らないが、バベルの塔以降、セム語族ヤコブの子ヨセフを、ハム語族エジプトのリヴイアサン的社会を見させておくための仲介役となったのは、ヨセフと同様に兄弟から敵対されていたであろうイシュメールの系統である。



神はイスラエル人をエジプトから出国させるために、まるでイスラエル人をエジプトに入国させなければならなかったかのようだ。



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