思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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フランス機能主義とドイツ実存主義

機能主義と実存主義。これを対比させるのには何か奇妙なことと思われるかも知れないが、私はそれをギリシャのゼウスとプロメテウスに重ねてみたいと思う。

まず実存主義と呼ばれるキルケゴールやニーチェは、共にそれぞれ著書 「死にいたる病」 1849と 「悲劇の誕生」 1872の中で、プロメテウスについて触れられている。特に 「悲劇の誕生」 の場合は、ショーペンハウアーの 「意志と表象としての世界」 1819でも引用されているゲーテの詩によってプロメテウスについて述べられ、19世紀頃のドイツ文化的風潮に符合した特質にある。



そもそも 「実存」 とは、個人の 「現実存在」 の略らしい。やがてフランスのサルトルは 「実存は本質に先立つ」 と言った訳だが、従来の人間の本質についての解釈理論にたいして、 「我思う故、我あり」 によって自覚されるような個人的な意識現実に存在論の基盤を見出した立場である。

たとえばキルケゴールの場合は、当時の勢力のあったヘーゲルのような人間についての解釈理論に抽象的説明と感じ、なおかつその理論吟味から発展を求めては学んでいる学的風潮に疑念を抱いていたと言える。つまりヘーゲルが歴史的発展段階に弁証法的止揚を示したことのたいして、キルケゴールは弁証法的止揚に論理的領域と存在論的領域の区別を見つめながら、ヘーゲルの不当な存在論への論理の適用に反対したのだ。

遡ることショーペンハウアーも、キルケゴールと同じくシェリングやヘーゲルの方法に反逆的であった。世界各地を回ってきていたショーペンハウアーにとって、シェリングやヘーゲルはドイツにおける流行哲学であり、彼はその風潮に逆らった訳だが、ただゲーテとの親交には恵まれた。ナポレオンはゲーテを見て 「あれこそ人間だ」 と言い、ゲーテはショーペンハウアーについて 「私たちの頭を越して倍ほどの成長をする人」 と評したと言われている。こうして見れば、実存主義の原型として、ゲーテとショーペンハウアーに一端があると言ってよい。

ショーペンハウアーとニーチェが引用したゲーテの 「プロメテウス」 見れば、それは "神ゼウスを必要としない世界形成への意志" である。 (「意識と表象」54節 「悲劇の誕生」9節) ショーペンハウアーの場合は、戦死者を出さないための戦闘中止にたいして、理念のための戦闘号令の側にプロメテウスを見ている。ゼウスとは現状権威の象徴であり、プロメテウスは代償を払わされる改革追求者である。またニーチェの場合は、ギリシャのソフォクレスの自然に反抗する凱歌にたいして、アイスキュロスの改革意識の厭世にプロメテウスを見ている。

多分、多くの人々はプロメテウスに、自分の信念に執着した頑固者を見るだろう。しかしプロメテウスとは、そのように人々から見られるだろう状況と知りながら、なおかつゼウスの裁きをも予期して、火を持ち込むことにあるのだ。アイスキュロスの原作では、縛られたプロメテウスは周りから色々と世話を焼かれ助言を受ける筋書きにあるのだが、それをあらかじめプロメテウスが知っていたと考えて読むのが、実存主義の根底にある社会観なのである。

なるほどキルケゴールの 「死にいたる病」 第一編の最終部、 「自分自身であろう絶望」 を見るならば、プロメテウスは頑固者のように扱われてはいる。しかし原作に登場する、中庸理念に華麗なる自尊心を持つ立場からの世話焼き助言の立場からではなく、キリスト教信仰の立場からの解釈であって、ゼウスに服従する大多数を味方につけた性格判断ではない。実際キルケゴールは 「現代の批判」 1846―― もともと小説「二つの時代」の書評であったが、他者によって改題されたもの ――では、大衆的同調志向についての社会心理学的考察がなされている。

実存主義の特質とは、【大衆的同調志向】にたいする反順応主義なのである。ショーペンハウアーは 「凡人は孤独を耐えられず同調を選び、天才は同調に耐えられず孤独を選ぶ」 という社会心理学的な現実解釈の図式を示していたのは、キルケゴールの 「現代の批判」 と等しい。ショーペンハウアーは [凡人・天才]、キルケゴールは[公衆・単独者]によって心理学的な形態論を示したのである。

ニーチェの場合になると、その凡人や公衆の社会的水平化に、「権力への意志」 を見て、これからの改革側にも必要な事柄と示した形である。それはヒトラーが率いるナチズムの教本にされた傾向も否めない。

おそらくニーチェの権力への意志の理論が、ある意味において実践論的立場から読まれることになってしまった結果であろう。もっと現実理解の立場から、水平化に従属同調する各成員たちのそれぞれ自身の箔付けなり、身の安全を計算した発言態度の中に彼らの権力への意志を見ながら、その中に平穏無事の中庸理念の自尊心があることを、心理学的な存在論として示すべきだったのだ。

ニーチェは道徳理念の形成要因に怨恨を見ていたが、同時に道徳理念によって他者を評価することの社会的効果を確かめながら、狙いすまして他者を卑下し、自身の優位を築こうとする自尊心を暴露した方がよかったであろう。道徳理念の形成要因を記して、それが撃退されることを望むだけではなく、道徳理念が放射されていることの社会学を充実させる必要があったのだ。ニーチェは大多数の弱者集団がソクラテス的主知主義の理念によって権力の意志を働かせ、少数強者を圧迫していると見ていたが、弱者集団の中でも互いに争われているそれぞれの自己演出的計画の御苦労を示せなかった。



そんなドイツのプロメテウス的な実存主義の状況に比べてフランスでは、ゼウス的支配の中に有益性を見ようとする機能主義にあった。デュルケームは 「犯罪は社会的結束に機能する」 としたが、それを言い換えてみるならば、「プロメテウスの側の強情は、世話好き助言する側の人々の、中庸理念の自尊心結束に機能する」 といった意味となる。ゼウスは、もはやプロメテウスを縛りつけ制裁をするのではなく、大多数の前でプロメテウスの性格判断をし、大多数が性格判断で争うことを願うのである。中庸自尊心の人々はプロメテウスに中庸欠如を見て笑い、今ではプロメテウスが持ち込んだ火を喜んで活用しながら生きているのである。中庸安全志向からあえて外れたゆえの功績を笑いながら、それを重宝がっているのである。こんなことを言えばプロメテウス信仰者と思われてしまうかもしれないが、しかしそうではない。プロメテウス信仰者は、プロメテウスの犠牲を訴えるために中庸者たちを責めるだろうが、私が言うのは、中庸者の抱いている理念にまともな社会観が描かれていないことの指摘である。つまりゼウス的社会学にたいしてプロメテウス的社会学を提唱しているにすぎない。

フランスの他の事情を調べて見れば、ル・ボンやタルドの群集論も登場している。それはショーペンハウアーの示した【凡人と天才の形態論】と幾分近いところにあるが、しかしそれは集団性の考察であって権力ゼウスと改革プロメテウスを踏まえた群集論とは言えず、ゼウスに服従する個人についての【集団と個人の形態論】なのである。実存主義はプロメテウスの立場をクローズアップしてゆくが、フランス群集論の場合は、中庸の有益性と弊害性の考察であり、機能主義的な思考を若干含めた形なのである。邦訳書もあるタルドの 「世論と群集」 1901を読めば、むしろテーヌの方がショーペンハウアーに近く、実存主義的なプロメテウスの立場にあろう。もちろんタルドよりもテーヌの方が社会観が優れているとまでは言えず、これからの社会学の多くの課題を残している。



全く機能主義と実存主義の対比と小難しい問題となったが、初心者にとってはオルテガの 「大衆の反逆」1930、フロムの 「自由からの逃走」1941、リースマンの 「孤独なる群衆」1950などから読み始めるのが、よい契機になるかも知れない。そこでは同調による社会的弊害、あるいはショーペンハウアーの解釈図式に沿う、孤独を回避したいがためになされる同調についての社会学的解釈の一端が覗けるだろう。そして機能主義のパーソンズやマートンとの解釈の違う点をよく考察すれば、やがて機能主義と実存主義の思考形態の違いへと視野が広がる端緒になろう。

オルテガ、フロム、リースマンの、彼らの著書とは、大衆と個人の関係が広く人々に身近な問題と感じられる時代にあって、なおかつ問題の仕方が共有されやすい形であったがために、普及しえた著書である。そこから遡ること、フランスのル・ボンとタルドの群集論とドイツの実存主義のちがいを見定めるには、プロメテウスが鍵となることだろう。フランスではカミュが 「反抗的人間」 1951でプロメテウスに触れられたが、しかしテレビの普及に従って大衆文化の力が絶大となったため、実存主義的思考は減退し、機能主義的社会学や群集論的社会学の方が重視される時代となった。

日本でショーペンハウアーに関心を示した人物には芥川龍之介が挙げられる。 「侏儒の言葉」 1923はその影響が大であり、フランスはパスカルの 「パンセ」、ラ・ロシュフコーの影響さえ感じられる。フランスの二人は社交界から離れた孤独からの心理学的解釈を示している点でショーペンハウアーと類似した見方にある。孤独側は社交側からの嘲笑や批評を受けるが、その批評の方法を利用し反駁したのがラ・フランス機能主義とドイツ実存主義であり、人々の解釈に潜む思考形態を逆手にとって思考形態を示唆させようとしたものである。

パスカルは 「誰もがただ名誉を求めて活動する」とひとまず揶揄する振りをしながら、 「こうしてこれを書いている自分も然り、これを読む人も例外ではない」 と論述したのであり、思考形態を自覚し、あるいは 「私解説する人、あなたされる人」 気分による思考の間抜けさと自身の解釈の社会的効果に忙しい人々の社交の状況を暗示させたのである。つまり二人には、周囲から受ける解釈にたいしての鏡的反駁方法を施す自体に、世の中のしくみを知る仕組みがあることが示されたのである。それは写実的な実証的解釈なのではなく、立場がちがう者がそれぞれ他者を卑下解釈している現実の仕組みから引き出させる解釈なのである。

芥川龍之介は、この二人のフランス人と、そしてショーペンハウアーから、実存主義的プロメテウスの領域へと入り込んだ作家である。また太宰治もそこに含めてよかろう。しかし芥川と太宰は、共に自殺により生涯を閉じている。

彼らは群集論なり実存主義の社会学や哲学の部門へ行けば、より新たな領域へ進めたであろう。結局日本では作家は作家、社会学者は社会学者と職業囲い込み意識が強く共有されていたために、前途の不安になったと思われる。以降、心理学者は心理学者と囲い込む連中たちが、無知なる大衆へ向かっては、彼らの心理について解説しているのを読むと、プロメテウスに助言と世話好きを施すことに自分の出番を狙いすますことと等しく、中庸自尊心に満たされた人々と言える。



つまり実存主義とは、個人の【現実存在】を見つめることに限らない。外界社会に反応する個人についての形態論 (ゼウス服従とプロメテウス) を示すものであり、個人内部に集中する精神分析やゼウス服従側に喜びを与える機能主義的社会学などの、本質論的人間観の不備を見つめるものなのである。

フランシーヌの場合



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