思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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サリンジャー ライ麦畑の精神科医

「ライ麦畑でつかまえて」で有名なサリンジャーは、東洋思想に関心を示していた作家であったと言う。たとえばフッサールの現象学が西欧思想ならば、禅は東洋思想であって、その知識所持やら雑念所持についての解釈パターンの一側面を、サリンジャーなどに垣間見れるのではないかと期待できよう。

実際、サリンジャーの短編を探れば、「ゾーイー」では、禅の"無心"、純粋意識の状態、悟りの境地について触れられているし、「テディ」では松尾芭蕉の二つ句が取り上げられてもいる。しかし東洋思想に関心を示していたこととは、一体何を意味するのであろうか?

まず私が思うのには、恐らくサリンジャーは、ゾーイーに自身の姿を重ねていたのではなかろうかと言うことである。まあ少なく見積もっても、サリンジャーが [フラニーを見るゾーイーの解釈図式(ものの見方)] を念頭に置いていたことたけは確かである。

まずゾーイーとフラニーの大きな相違点としては、「ゾーイー」の中で記されているところの、アッシジの聖フランチェスコ派についての見解に認められます。フラニーがそれに心酔する傾向にあるのに比べてゾーイーが疑問視している形ですが、聖フランチェスコ派の意味することとは主に[清貧]であると理解してよいだろう。ゾーイーはフラニーが嫌悪を覚える箇所、新約聖書「マタイ伝」第六章の動物より人間が優れていると語るイエスの言葉を持ち出し、フラニーの差別待遇しない仏陀の方への傾倒を指摘している。

しかしサリンジャーは、フラニーの考え方を諭す形によって仏陀に欠如を見てイエスを持ち上げたのであろうか? それともサリンジャーは、フラニーのような考え方に実際の自身の考え方を重ねてみたのであろうか?

「ライ麦畑でつかまえて」では危険な崖から子供が落ちる前に助けつかまえる仕事をしたいとホールデンに語らせている点で、そのホールデンの気持ちとゾーイーの気持ちが重ねられているのと同時に、回転木馬に乗るフィービーにはこれからのフラニーに是非あって欲しい状態を望んでいるかのように思えます。「フラニー」を読めば、自他双方のエゴに嫌悪を抱くフラニーである訳なのだが、そうした考え方のままではライ麦畑から迷い外れ、いずれは崖から落ちてしまう危険性を予感していたゾーイーであったがゆえに、フラニーを諭す形になっているのである。また「ゾーイー」で記されることには、聖フランチェスコ思想の清貧に目標を置いているフラニーであって、フラニー自身もその理想である清貧が出来ていない欲張りなのだと自認している

サリンジャーは、フラニーの清貧への心酔を描くことによって、人々のもの考え方がその人自身の心理状況に食い込んでいることを示唆している。もっと言えば、ちまたに流布しているある思想に心酔しているがゆえに、崖っぷちに立たされる運命へと導かれてしまう危険性についての社会学的な解釈を持ち合わせながら、フラニーを描いているのである。

サリンジャーはエゴへの嫌悪や差別待遇のない仏陀への心酔をフラニーによって描いたのであるが、おおよそエゴにたいして嫌悪を抱くことについては、その「エゴ」と見る考え方自体に問題を求めていたと考えてよいと思う。ただし東洋思想の無心の禅や仏陀などのサリンジャーが抱いていた見解については、両面が混在していたと思う。一方では聖フランチェスコ派の清貧のような聖俗二分化への自己固執と見ていたであろうし、もう一方では西欧思想におけるフッサールの現象学のような、知識を洗い直す領域と見なしていたようにも思えるからです。



さて彼の作品をざっと見た感じから、サリンジャーとは人々が抱いている知識理念についての心理学的かつ社会学的解釈を持ち合わせていた作家と見なしておけるでしょう。と言うのも、特にフラニーが自他共に「エゴ」を嫌悪していることを、フラニー自身が「エゴ」の知識理念を抱いていることに要因を見ていたゾーイーについての描写がなされているからです。「エゴ」とは、エゴではない「清貧」やら「他愛」などの何らかの反意語に位置する理想像がはじめにあって成り立つ概念なのである。その理想像から現実をその欠如と解釈し、そして現実改革を意味する「エゴの撲滅」という理念が目標とされることとなるのである。エピクロスの快楽主義、スピノザの「エチカ」、有島武郎の「惜しみなく愛は奪ふ」などは、そのストア派的な理想像を問題として構築される考え方であって、サリンジャーも彼らと等しく反ストア派的な立場に位置している。

しかしサリンジャーの場合は、その自利理念と他愛理念の議論に留まらず、その議論対立のある社会状況をも問題としたと言える。「フラニー」と「ゾーイー」とは、たとえれば、他愛理念に心酔したストア派を救済しよとするエピクロス物語なのである。ライ麦畑でくらしているストア派が崖っぷちに立たされるところで、エピクロス派が救済のため議論を仕掛けているようなものである。サリンジャーはゾーイーに「彼らが象徴している事柄を軽蔑に留まらず、彼らそのものまでを軽蔑している」とフラニーへ向けて語らせているが、それはサリンジャーが人々の象徴(理念)闘争の場と見ていた証となろう。フラニーの場合は、まだその象徴闘争として世の中を見る段階にはなく、ストア派的な聖俗二分の理想像に固執していると見ている訳である。

まさにサリンジャーは人々の全般的な知識理念について、それに心理学的影響や社会学的影響を見ていたであろうと言える。繰り返すこと、フラニーの抱いていた人間観の中にストア派的聖フランチェスコ派的な「エゴ」の概念を見ていたサリンジャーであるのだが、同時に20世紀に入って普及した精神分析の人間観についても、等しくその社会的影響を見ていたサリンジャーと考えた方がよい。フロイトによる国際精神分析学会の設立は1910年であるが、それは新たな精神分析という理念が広く流布されていった歴史的状況を察するための、一つの基準として捉えておける出来事となろう。

そのサリンジャーが見ていた精神分析の社会的影響については、一つに「ゾーイー」の中に確認出来るだろう。そこでは異常早熟の子供に特別な関心を寄せる児童心理学者に象徴されるような、特定個人の解明つまり「私分析する人、あなたされる人」気分の人々であり、また一般の匿名大多数には「私解説する人、あなた聞く人」として説明解説する、そんな学者意識にある人々の社会的影響を暗示させている。

「ライ麦畑」の24節後半、アントリーニ教授の意見を見るならば、そこには"独立自尊"の社会参加状況についての評価が満載である。ホールデンにとって信頼できる方の教授でさえそうした見解を下しているのだから、相当に社会観の共有や伝承に関して乏しい社会環境であるかがよくわかる。全くホールデンがライ麦畑にいる何千もの子供を見守りたいと思うが、しかし人脈形成を諦めてなのか、個人的な仕事としてのみ考えることとなった経緯や状況がわかる気がする。

なるほど、もはや"独立自尊"が暗黙のルールとなった社会環境に囲まれていたホールデンなのであり、崖っぷちの監視役などは人々との共有を望めず、ただ自身の個人的な職業選択のように語らざる負えなかったのである。そして誰もが圧力を受けている独立自尊の理念ということをそっと根拠に忍ばせては、「人生は競技である」と説得する集団が横たわっているで文化環境であって、すでに精神分析なんかも上手にそこに潜り込んでいるのである。実際、「ライ麦畑」を読み始めれば、早くも2節でその状況が暗示させられた形なのである。

しかし妹フィービーが回転木馬から落ちやしないかと心配となるホールデンは、それを干渉してならないと思うのだが、それは崖っぷち監視役の仕事は必要とされていない状況であることを意味する。もはや崖っぷちの負傷者たちは、精神病院へ送られるのである。精神科医たちは"独立自尊"の失敗者として彼らを吟味分析し、彼らの再生に向けた自称するところの「治療」に努力するのである。結局ホールデンが精神病院にいるようになったのは、ホールデンが思ったような崖っぷち監視役ごとき仕事は誰も必要としないのが世の中であって、ただ精神科医の取り巻きたちが崖っぷち地帯で待ち構えては占有していると言ったオチなのである。

マジ、 「ライ麦畑でつかまえて」とは、よく言ったタイトルである。崖っぷちでの危険予知や保護をひとり目指すこととは、仕事にならないばかりか自らの精神病院行きを意味し、さらに崖っぷちで待ち伏せするは精神科医の専売特許と言った社会風刺付きを意味する、そんなタイトルなのである。

ホント、精神分析の理論なんかは学問のふりをしているが、実際はろくな学的評価が下せる人々によって認められている訳ではないので、文芸批評のような評論だけで丁度よい。サリンジャーや彼の作品の登場人物が著名であることをいいことに、懸命に学的気分で精神分析なんかを用いたりする阿呆を育てるだけである。ただ学的権威がなくなれば、秘境的な学的既得権益に安住の地というか、今までの苦労の当然なる報酬と思っている人々にとってはたいそう心配な話となりそうだが、しかし人々もライ麦畑で隠れてお楽しみ中なので、崖っぷちに待ちかまえてる彼らの姿も、別に隠れる工夫もなくライ麦畑の中から監視されることはないため、それほど困ることもないだろう。 (いやはやひょっとすれば、もうすでに学的価値などないことを、みんな充分に理解し合っているのかも知れないのだが……)

全く阿呆な批評家たちの「ライ麦畑」を読んでは精神病院後のホールデンについて語り合う姿などを思い浮かべれば、崖っぷちで待ち構える精神科医的な気分にあやかりたいのか、やたらと「私分析する人」気分に懸命な結果である。誰も彼もが著名なるものを解説しようと心理学者になりたがり、全くサリンジャーを社会学者と見ようとはしない、そんな社会的な状況の方こそ、むしろ気がかりに値する事柄なのである。

まあそんなことを語っている歴史的事実も、その時代に渦巻いていた狙いすまし知識階級への憧れを抱いていた人々を知る一つの手掛かりとなる点で、大いなる痕跡を残したものと評価できるだろう。もし日本の中村主水であるならば、自らが精神病院へ入れられては大変なので、実生活では小馬鹿にされつつも、裏稼業としては人々の意識改革を進めようと隠れては思案することになりそうです。

そこで未来の方向性を示しておくならば、「ライ麦畑」24節の後半部、学識知識階級と個人的思想形成の記述は、やがてショーペンハウアーの[社交・孤独]の形態論、アメリカの社会学者グールドナーの[同調・逸脱]と[報酬・代価]の形態論などにスピノザの「エチカ」第三部(特に定理19~49)が合わさることよって新たな心理学となり、さらには知識社会学としてまとめられることとなるでしょう。

おそらくサリンジャーが作家活動を辞めたのも、仲間となりうる社会学者がいなかったこと、また心理学者的な自尊心を持つ人々ばかりが寄り集まってくることにうんざりしたことも関係していたであろう。またひょっとしたら、それは中村主水みたいな生活を選んだ結果なのかも知れない。

それにしても、今日もライ麦畑の精神科医たちは、自身の職業囲い込みの社会的特権を隠しながら、崖っぷちで仕事を待ち伏せしているだけで、彼らには全く " How many roads must a man walk down, before you call him a man? " は聞こえていないようです。人とは自分がそこそこの立場にありつければ、あとは言論の自由でズームイン的他者評価で安泰となるものなのでしょう。全く安上がりの社会観たちは自らを守るために、誰かの精神分析を見せ続けなければならないものなのです。



この道や 行く人なしに 秋の暮



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