思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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現象学 と 禅意識

現象学の【判断中止】は、ある意味において禅意識の【無我】あるいは【止観】と似ている。たとえば禅を"雑念を取り払う"ことと考えておくならば、「よ~し、これからは少しおいらも心を改め、悟りの境地とやらを目指して雑念を取り払おう」と思う、そんな気持ちを意味するのである。

まあ、心を改める気持ちなどまっさらない人にも、さほどお金がかかるわけでもなく、また道具が必要になるわけでもないので、是非お付き合いを願いたいと思うが、ちょっこらその場で、雑念のない「無我」と言うか「空」の境地なんかに挑戦して見て欲しい。

あれこれさっさく試して見れば、これはなかなか難しい。何も考えないように努力しても、つい「考えないようにしなければ……」と言った雑念が生じては堂々巡りとなって大変なのである。

禅意識とは、おそらく「空」と言うよりは【出来事の記憶意識】と言った方が的確と思われ、雑念や知識、想像、思い、感じなどが生じることについて、それを【自分の意志で起こしているのではない】と自覚する意識なのである。

再び雑念をなくすことを目標に掲げながら、「雑念をなくそう」と試みるとしょう。その試みようとした意志さえも、実は"自分の意志で起こしたもの"ではなく、何故だかわからないが、"自分に起こった出来事"と見る意識が禅なのであり、そしてその見ている意識も等しく"自分に起こった出来事"と意識される状態を意味します。

ただしそこには注意しておかなければならないことがあります。それは "自分で起こしたもの" ではなく "自分に起こった出来事" と意識できるのは、実は頭(理性)を通して考えられたという側面があることです。何も考えない純粋な意識を意味する禅なのですが、実際は理性を通した何かが加えられた意識なのです。またその頭で考えられたこと自体を自覚する必要がある訳ですが、その理性使用の自覚さえも"自分で起こしたもの"ではなく"自分に起こった出来事"であると再度頭で考えさせて(ここでも考えさせたのは、自分の意志ではないと言う意識がある)、実際の「今・今・今・今・今……」と止まることのない雑念所持の出来事を意識し続け、かつ記憶されて行くことが、禅に見られる意識です。



さて現象学の判断中止と比べてみれば、中止される事柄は "判断" と "雑念" と異なっています。 "判断中止" の場合は、まだ自らの抱いている判断の真偽を保留し、その判断所持していることに注意すれば足りますが、雑念の取り払い(実際は取り払いではなく、雑念の外部性の自覚である)の場合は、真偽の保留という仲介がないために困難を極めます。

確かに判断中止が判断所持の現実を自覚させるのと同様に、雑念取り払いの場合も雑念所持の現実を自覚させることだと言える訳ですが、しかし判断中止の場合は真偽の保留があるため、[真偽追求]と[判断所持の現実]の二通りの区別から、従来の無自覚な判断所持と新たな自覚のある判断所持の意識が対比できる形なのですが、一方の雑念取り払いの場合には、雑念所持を自覚したところで一体それに何の意味があるのかがわからなくなってしまいがちとなります。たいていの場合、禅の意識とは「雑念の取り払いから悟りの境地に達する」という解釈がなされる傾向にあるため、雑念所持を自覚したところで、「一体、何が悟られるのか?」がわからなくなってしまうのは当然なことでしょう。

そこで禅の悟りの意識が得られたものと仮定しながら、その意識から人々や過去の自分がどのように見えるか述べておきますと、それは "無自覚な雑念所持に振り回される自己" と観察されるようになると言える意識です。つまり、その悟りの境地に至った側からすれば、人々が雑念に振り回されているように見えるため、後世の人々へ伝える方法としては"雑念の取り払い"を説く形になっている禅なのです。

全く禅における雑念の有無では聖俗の対比になっている点で、知識形態の多様性を踏まえた解釈図式には至っておらず、現在においても充分な発展した形にまで及んではいません。言うなれば、禅とはストア派の禁欲主義である賢者の理想像、あるいは俗とは異なるイエスキリストを特別視した三位一体説ような聖俗対比のみの一本槍状態にあると言えます。つまり問題点としては、単なる"聖なる禅"と"俗なる雑念"の対比に留まらず、もっと禅の側にも何らかの雑念とは異なった何らかの "念" の浸透した状態として解釈説明してゆく必要があるのであり、禅の念と俗の雑念の形態論を究明する領域が残されているのである。他方の西欧文化においては、その単なる聖俗の二項対立図式に留まってはおらず、新たな形態論としてはドイツ語圏で復興した、ディルタイ、シェーラーや知識社会学のマンハイムなどがあり、その形態論の一指針を促進させていたと言えます。

なるほど禅の意識には雑念はないものだと簡単に理解しておくのもよいかも知れないが、しかしすべての念が無くなってしまった意識ではなく、新たな念が生じたものと解釈さなければならない。たとえば小さき幼児なんかはどうだろうか? 好奇心が赴くまま見つめる眼差しは、自身の雑念に振り回されることが少ない点で禅の意識に近いのかも知れない。しかし禅の意識は、自身の雑念に振り回されていた過去や他者の雑念に振り回されている状況を見つめる新たな念を通した意識でなければならないのである。

その禅に至る意識変化についての説明は、今までドイツでなされた知識形態の多様性についての関心のようには充分になされて来なかったのであり、それは知識形態論のような学的関心によって補われていくことになると思われる。私の場合は、それを現象学との兼ね合いから 【理性の位置】 あるいは 【知識所持】 の自覚によって融合できると見ている。おおよそ現象学とは自然的見方の統覚状況を 【知識"形成"論的解釈】によって体系づけてゆく傾向にあるが、禅の意識の場合には自然的雑念によって行動する人々について、どちらかと言えば 【知識"所持"論的解釈】 によってまとめてゆくことになるであろう。

こうして考えてみれば、禅とはただ悩める者の自らの浄化や悟りのための修行でない。個人個人の意識変化が社会を変化させると言った意味で、まず自らの意識変化を志すのであり、また堅実なる社会批評を目指す意識獲得を目標に含めながら禅を宣伝していく必要も、やがては生じる時代が来るのだろうと思われる。

まあ簡単に禅をまとめてしまえば、それは

「雑念を憎んで 人を憎まず」

と言った意識なのかも知れない。



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  1. 2010/09/12(日) 06:47:02|
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