思考の社会学 ~心理学革命~

人それぞれ、様々な個性的思考のもと、論議し生活している。我々は人々に影響を与え、影響を受け、時代が変わってきた。 そんな様々な思考が交錯することで生じる時代変化など、心理学的にまた社会学的に考察する。

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理性の位置 現象学と社会学

「知識所持」とは、少々奇妙な響きに聞こえるかも知れないが、それは現象学の「判断中止」から得られる「括弧入れ」の意識を表した表現と思ってもらえればよいだろう。「知識」とは、判断、理念、思い、世界観、人生観、イデア、想像、観念、言葉など、あらゆる頭に思い浮かぶもの、あるいは無意識的な知識までを含む意味に相当します。

さて「所持」とは何を意味をするかと言えば、簡単に記すと【外部の付随物】を意味する。「私は思う」と「私は考える」では、その外部知識を所持している状況はよく表されていない。また「私は考え直して、帰った」では思い直しから帰りの推移である。もし知識所持の観点を強調するならば、「私は頭で思う」、「私は考え直し、その直した考えのまま、帰った」となる。

また「所持」とは、外部の付随物ということ以外にも、【理性には力がない】ことを意味する。ある考えが浮かび上がって我慢をするような場合、「理性で欲望を抑えた」と一般的に表現できるのだが、別に理性自体には力はないし、実際は理性を使った本能自身の結果であり、力が出所は本能の側のみなのである。むしろ「何らかの抑制をさせる本能が理性を使用した結果、ある種の本能が抑制された」と言った方が、まだ的確である。理性には全く力がない。人格神を勝手に人間の作り出した想像物と思っている人がいるならば、その理性に勝手に力を持たせた人格理性の間抜けさについても見抜いてもらいたい。カントの「実践理性」では力のない外部付随物として考えられ、その実践理性をよりよく使う仕方を訴えた形だったが、フロイトの「超自我」となると、まるで理性に他から加わる力があるかのような雰囲気を上手に持ち込んだ感じがする。

たとえば、鏡に映った自らの風貌を見て、自己嫌悪が生じたとしよう。まるで理性に力があるかのように説明することとは、その自己嫌悪感の原因を"鏡の力"とすることと等しい説明なのである。あるいは自殺について、それを自殺を計画した理性が自分を殺したと言うことに等しいのだ。鏡に力がないように理性にも力がないのである。我々は情報処理について、[情報]と[処理する力]をよく区別しなければならない。[情報]を参照して自らの行動を抑制した場合、[情報]が抑制させた訳ではなく、[情報を参照した者]が抑制したのであるし、その[抑制]にしても[抑制しない]というイメージとの理性内における比較の結果なのである。たとえば細い前方の道を小型車が揃って直進している交差点で大型車が左折する場面を見ては、大型車は直進前進を抑制したと言うようなものなのである。

「理性の力によって抑圧される」と見なす解釈の場合、その力の生じた起源を尋ねることはせず、ただ抑圧された場面の原因を説明するためだけに[理性の力]を持ち出しているに過ぎないのである。または社会的安定を目指すために、その理性抑制の必要論を人々に普及させ、互いに働かせておくことが求められた結果である。しかし存在論的解釈から見れば、その理性抑制論は物象化以外の何物でもない「理性の力」なのだ。

要するに心理学的解釈モデルとしては[理性・本能]で力を持っているのは本能の側のみである。我々が抑制しようとしている欲求とは実際の本能とは関わりがなく、ただ"理性内で解釈された欲求のイメージ"を実際の本能が覗いているのであって、理性内に"抑制の命令と言うイメージ"を描いているのも同じ本能なのである。嘘だと思うのならば、なぜ抑制する側ではなく抑制しない方を選ばなかったのか考えて見ればよい。「本能を抑制するように命令した」と理性内でイメージされていたものとは、理性内で「本能を抑制しない場合」を無意識にも実際の本能が計算して避けた結果だからである。その選択の後、「抑制された本能」や「抑制しなかった場合の結果予想」が理性内のイメージとしてのみ残ったに過ぎない。確かにその理性使用の結果、本能が変容し、また抑圧された本能と言える状態になったと言えるかも知れないが、避けたという出来事に本能が関わっていた点を忘れずに考慮するならば、理性内で描かれていた「我慢」のイメージから導き出された「理性の力」に過ぎないことが理解できよう。



現象学的判断中止によって、あらゆるすべての知識を括弧入れする意識(先験的還元)を獲得する訳だが、その意識獲得によって[知識所持]の解釈モデルを構築する基盤を作るのである。そして上記のような"力なき理性"、"外部付随物の道具である理性"などから、再度[知識所持]の意識が理性を使用しながら前提しうることとなる。スピノザの「エティカ」にしても、幾何学的真理の体系としてではなく、解釈モデルの説明のための記述と見るならば、現象学的判断中止の意識から前提された解釈モデルとして、ある程度は認められる充実した内容にあろう。(実際、スピノザは性悪説、禁欲主義、他愛主義、意志自由論などの思考形式の問題点から構築されている)

フッサールの示した"指向性を持って現象を見る意識の自覚"から向かう方向性としては、現象(事象そのもの)へ立ち戻る新しい認識論への道へ進むよりは、むしろ現状の人々が信じている理論に潜んでいる思考形式についての弊害を示すために、個々に現象から構築された解釈モデルをもっと示す必要があったのである。「デカルト的省察」第三十二節では、新しい現象学的判断中止の後の"習性の基体"として"決心(前提モデルの設定)の持続性"を記しているが、その決心の持続性の解釈モデルを、現状の実際の人々が抱いている知識形態の解明にも用いること、つまり一般的人間の知識形態の恒常化、習性化について解明する領域をフッサールは充分に進めなかったのである。

その後フッサールの「デカルト的省察」ではモナド的自我について話を進めているが、しかし他に思考形式を理性内に形成されている自我として捉え、現象学的判断中止の意識を持ったモナドとその判断中止を知らない自然的なモナドの実際の社会的関わりの中で、現象学的モナドの立場から自然的モナドの無意識的な思考形式の使用状況から新たな思考形式を構築しうる領域を示す必要がある。フッサールはモナド論から現象学的な解釈モデルを哲学的に説得することに集中し、実際に人間が行ってきた様々な思考形式の使用についての歴史学的社会学的な考察のための解釈モデルの構築にはない。一方のスピノザの「エティカ」の場合は、人々の思考形式の問題点を考察し、新たに社会学的な解釈モデルを構築した後の、説得方式に幾何学的証明を利用した結果なのである。



やがて[知識所持]の現実については、研究者としての自分自身だけではなく、他者の知識所持についての解釈モデルにも適応される。その方法とは洞察の源泉であり、一風変わった占い師なり預言者にも用いられて来たものかも知れないが、社会学への現象学の適応については二重の開拓領域を占めることとなる。

現在流通している社会学理論の仮想概念化された不備を正す意味で、実際の社会的現実[現象]に注意する意識から新たな社会学的解釈モデルを構築していく領域と、社会を知識所持している人々で構成されていることを意識し解釈モデルの源泉(記憶)にする領域とがあるのである。前者は社会学者としての、自身の抱いている社会観を自覚して意識すること(現象学的判断中止)であり、後者は自他双方を含む知識所持した人々の社会的関わりの自覚的な事実収集(知識社会学の素材)である。

現象学的社会学と呼ばれているシュッツの理論に触れる際には、前者よりは後者の立場から理解した方がわかりやすいだろう。それは社会を現象へ立ち戻って解釈して行こうと言った研究意欲ではなく、"現象を見て反応する知識を所持した人々"として見る社会学的立場なのである。フッサールが学的意味の判断中止のみでなく生活世界を含めた判断中止を示したのは、あらゆる人々のあらゆる知識の所持状況を捉える意識確保である。一般的に学的な判断中止では、新たな厳密なる理論を構築しようとするための思索的な形成(啓蒙的哲学)が主な関心となる傾向にあるが、生活世界における判断中止となると、人々のそれぞれの恒常化された知識形態の形成過程(知識形成論)、あるいはその恒常化された知識形態を所持した人々の社会参加状況(知識所持論)のような社会学的な関心が開けるのである。つまりシュッツがシェーラーの[相対的に自然な世界観]が持ち出したのは、生活世界の判断中止から生じる、人々の世界観所持状況についての意識からなされるのである。

そうしたフッサールの生活世界における判断中止から[知識所持]についての関心を基盤にしたシュッツであり、サムナーの社会学理論とも組み合わさることとなった。我々の生活世界における知識形態とは、同調的あれ反発的であれ、周辺他者との関わりから影響されて形成されるのであり、【内集団の知識社会学】が進められるのである。そしてその内集団的知識形態には【自民族中心主義】の特質が宿る傾向があり、外集団の知識形態との関わりが考察されるのである。シュッツはフッサールの現象学から知識社会学の解釈モデルを構築しながら、サムナーの内集団と外集団の社会学を融合深化させたのである。

こうしてシュッツの現象学の取り扱いからは、さらにバーガー・ルックマンの「現実の社会的構成」をも[知識所持]をキーワードとして整理できるだろう。[外化]とは"知識所持による社会参加"であり、[対象化]とはその人々の社会参加によって個々人へ影響を与えるようになった"社会の力"(これは物象化された概念である)を意味し、[内在化」とはその社会的力を受けた個々人の新たな知識形態への変化である"知識形成゙を意味する。その新たな知識形態を所持した人々は新たな外化を働かせては対象化され、また新たな内在化となるのだ。

ただし対象化については様々な知識形態の人々の活動、もしは個人個人の視界へ現象として映し出される元と見なされなければならない。さもなくば個人個人へと影響を与える漠然とした「社会」と解釈されてしまい、逆にその解釈自体を一つの現在に流布されている知識形態と見なし、その知識形態の実際の社会的影響が問いただされなければならない必要性が生じるのである。

まあ、これからの将来における展望としては、現象学のテーマを[現象]よりは[知識所持]の方に向けられ、知識社会学との融合に課題が求められることだろう。



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  1. 2010/08/30(月) 19:18:57|
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